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昼食 

一口目と二口目が一番美味しい。

三口目で少し慣れて落ち着いて、四口目からは感動がなくなる。

それ以降は、特別の感動は覚えないが、口に入れたそれを味わうことが不快でなくもう一口食べることも吝かでないという即ち惰性のために、同時に人間を満腹にしたいという本能の欲求のために食べ進める。

食事を行っている最中の、特に中盤の感情を思い出せる者は多くないが、その時には空腹を満たすという食事の単純な目標を達するに向けた作業に既に移っているからだろう。その頃にはもはや食事について顕在的に意識することはなくなっている。例えば箸で具を持ち上げる時に肉と野菜が絶妙の釣り合いになるよう努力したり、食事の進度を慮って途中スープやサラダに箸を伸ばしたり、何気なしにタバスコを数滴かけてみて口に入れた後かけすぎたことを後悔したり、多少は眼前の食に注意しつつ手と口を動かしながらも、脳内ではこの後の予定や店を見渡して目についたものや過去の失敗に対する妄想などの取るに足らない想に耽っている。

最後の数口は、美味しいから食べるわけではなく、満腹にするために食べるわけでもなく、食べたいから食べるわけでもない。既に胃の中はほとんど満たされていて、食事に対する生理的な喜びはなくなっている。美味であるはずの食事も、この数口までの道程によって慣れと飽きを積み重ね、最初の幾口のような美味しい! という感情の昂りは望めない。口に入れて同じ味を感じた時、それが強いて好感情だとしたら、せめて安定などと言うのが適当だろう。何とはなしに流れに沿って、まだお腹に入るのに残すというのもなんだか気持ちが悪く、今まで食べ進めてきた事実に一貫性を持たせたいし、そもそも食べ物を残したら良くない、というどこかで覚えた真理みたいなものに促されて、特段食べたいわけでもないけれど、なんとなく、そうした方が良いんじゃないかと思って、食べる。

最後の一口は、既に得られた十分の満腹・同じ味を繰り返し摂取したことによる諄さ・ごく微かな気持ち悪さから目を逸らして、その一口を飲み込むことで得られるだろう、一膳の完食というタスクを完了した僅かの達成感に期待して、口に運ぶ。

ついでに、最後のご飯粒の一つまで、箸でつまんで、手首を返して、口の中に入れて、舌と喉を動かして、飲み込む、という作業をする。そして透明のコップに一センチほど残ってぬるくなった水に対しても、似た動作を繰り返す。

ごくり! と音を立てることもなく無音で水を飲み込んだ後、美味しかったーと声に出したり声に出さずに心で思ったりするのは、一口目や二口目の感動を思い出しているだけで、または三口目以降しばらく続いた「もう一口食べたいな」という感情を思い出しているだけで、はたまたこの一食事を全て食べ切ったという変えられない過去への整合性を保つために美味しかったと納得しているだけで、最後に惰性的に飲み込んだ数口はその「美味しかったー」に含まれていない。

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