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短編 猫と

 あの猫はよく私の庭にやってくる。
 目が大きくて、真っ黒な毛で全身を覆われたオスの猫。彼は気まぐれにうちの庭の塀を登っては、気まぐれにそこを去る。そんな彼が私は好きだった。
 今日も彼は庭に現れた。あっ。今日はいつもより長くそこにいてくれたらいいな。そんな私のささやかな願いは、ママによってくしゃっと丸められる。
「あっ! またあの猫だ」
 彼はママの大声によって塀の向こうに消えた。
「いつもいつも勝手に人の庭に上がって……」
残念。今日こそお話ししたかったのに。彼を追い払って得意気なママは私の名前を呼んで、ごはんよー、と台所へ向かった。
 ある日、またあの黒猫が庭にやってきた。その日はたまたま、ママが出掛けていて家にいない日だった。やった。今日は彼とお話しできる。私は心の中で小さくガッツポーズをした。こっちおいで。お話ししよう。私は彼を手招きした。でも彼はこっちをふらりと見ただけで、いつものようにどこかへ歩いていってしまった。ああ。残念。今日はママがいないから、彼もずっといてくれると思ったのに。
 その後も、彼は私の庭に現れた。でもその度にしっしとママに追い払われてしまう。ある時、私はとうとうお母さんに抗議することにした。ママ。私、彼とお話ししたいの。なんでいつも追い払うの? 私の声を聞いたママは少し驚いた顔をして、そして優しい顔で私に言った。
「なあに。あの猫ちゃんのこと? ああいう野良猫は放置してると庭を荒らされたりフンをされたりするの。だからいつも追い払ってるのよ」
 そう言った後、ママは私の返事も聞かずに彼にしっしと手を振った。私の言葉を聞いた彼は、心なしか嬉しそうな表情をしていた。でもその時は、ママに急かされてすぐどこかへ行ってしまった。
 その日から、彼は私の家の庭に現れなくなった。私は彼のことが心配で、いつもは美味しいはずのご飯が美味しく感じなかった。私、嫌われちゃったのかな。そんな不安に襲われたりもした。でも、ママは「ようやく懲りたのね」と言って、彼が来なくなったことをとても喜んでいる様子だった。確かに、彼は時々ママの庭にフンをしたり、死んだネズミを置いて行ったりすることがあって、ママにとってはすごく迷惑だったのかもしれない。ママがそう言うんだからこれで良かったのかな、と思いながらも、私はどこかで、彼が今何をしてるんだろうと考えてしまっていた。
 彼と会えなくなって一か月ほど経った頃。私が縁側でごろごろしていると、見覚えのある黒い影が私の視界に入った。あの黒猫だった。久しぶりの彼に、思わず私は跳ね起きて彼に声をかけた。久しぶり! こっちへおいで。怖がらなくていいから。すると、彼は私の方へすたすたと歩いてきた。そして照れ臭そうに、久しぶり。と言って、後ろ足で顔を掻いた。彼が初めて話しかけてくれたことに、私はとても喜んだ。でも、その足に大きな傷跡があったのを、私は見逃さなかった。久しぶり。それよりどうしたの? その足。怪我してる。私の言葉に、彼はまた恥ずかしそうに笑った。そうなんだ。怪我しちゃってさ。向こうの家の前にいた犬にちょっかいをかけたんだ。相手はリードに繋がれてるから逃げられると思ってさ。でも、油断してたら、ほら、この通り。だからこれが治ってくるまで休んでたんだ。彼の言葉に私はそうなんだとうなずいた。気を付けてね。でも、今はもう大丈夫なんだよね、よかった。私がそう言うと、彼は心配してくれてありがとうと笑った。でも、そんな何気ない幸せな時間は、ママの登場によって終わってしまった。
「あっ、またいる! もういなくなったと思ったのに」
 彼はママに怒鳴られてからすぐ逃げてしまったけど、その日から私たちは仲良くなって、よくお話しをするようになった。もちろん、ママの目を盗みながら。
 今日はこんなおやつを食べたよ。あそこの丘に綺麗な花を見つけたんだ。ママがおもちゃを買ってきてくれてね。今日は五匹も虫を捕まえたよ。幸せなひと時の数々は、毎回、ママの大声によって終わってしまう。私は彼とお話しができるのは幸せだったけど、その分、彼との時間が終わってしまうことが辛かった。
 そして、私は病気になった。とはいえ、重い病気という訳ではなかった。ママが私を病院に連れて行ってくれた時、病院の先生は、この病気はストレスが原因だと言っていた。「ストレスが溜まることなんてあったかしら」とママは首をかしげていたけれど、ママが黒猫の彼を追い払うからだよ、なんて、私には言えなかったし、言ってもママに上手く伝わるとは思えなった。しかし、優しく私の背中を撫でるママの手は温かくて、やっぱり私はママのことが大好きだなと思った。
 病気で具合の悪い私は、今日も縁側で体を休めていた。すると、そこに一匹の黒猫がやってきた。私は彼を見て、満開の花のような気持ちが胸に広がった。具合の悪さがすーっと引いていくようだった。来てくれたんだ。私が声をかけると、彼は病気になったって聞いたけど、大丈夫? と言った。あなたが来てくれたから、全部大丈夫になったよ、と本当は言いたかったけれど、私は何だか恥ずかしくなって言えなかった。そして、実は、と彼は切り出した。実は、お見舞いの品というか、君にちょっとしたプレゼントを持ってきたんだ。その言葉に私は嬉しくなって、本当! 嬉しい、と、今度は正直に自分の気持ちを言った。私の返事に、彼はちょっと待っててね、とそのプレゼントを取りに行き、そして何かを咥えて戻ってきた。彼が咥えていたものは、三匹のネズミだった。私はそれを見て、わあ、こんなに沢山、ありがとう! と喜んだ。胸の内側がピンク色に染まっていくのを感じた。私は早速そのネズミを一匹ずつ大切に食べはじめた。こんなに美味しいごはんは初めてだと思った。でも、そんな幸せな時間はまたすぐに崩れ去った。ママに見つかってしまったのだ。
「こら、勝手に入るな! タマもこんな汚い猫と仲良くしないの」
 ママに怒声をぶつけられ、遠ざかっていく彼の背中。
「誰かが処分してくれたらいいんだけど」
 ショブン、という音の意味はわからなかったけど、なんとなく、殺す、ということなんじゃないかなと思って、私は咄嗟に彼の背中にとびついた。彼は逃げようとしたけど、足を怪我していたので逃げられなかった。
 やめて! と言って彼がこちらを振り向いたので、私はその見開いた目に指を入れた。彼の目をえぐり取る時のブチッという音は、ネズミの頭を噛みちぎった時の音に似てるなと思った。
「ニャーー!」
 私は嬉しくなって振り返って、今取ったそれをママに向かって転がしてみせた。

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