書く

考えることとはバケツに水を貯めるようなものだ。
その逆に、文章を書くことはそれを排水することに近いだろう。
貯まるのは真水ばかりでもないため、バケツの中は次第に濁っていく。
バケツには容積もあるため、定期的に排水を行うのが望ましいように思う。
僕は、学生時代のちょっとしたレポート等以外に文章を書くということをほとんどしてこなかったため、貯まった水の量は多く、また、濁ってもいるだろう。
そんな僕にとって、「ものを書く」というのは難しい。
不透明な水の中から、ピンポイントで言いたいことを抜き出して文字を起こすのはただでさえ息が苦しくなる作業だ。

文章を書く以外にも、言語を使うという共通項に関してなら、話すことも無関係ではなさそうだ。
考えることは水を貯める、書くことが排水であれば、話すことは浄水ではないだろうか。
口頭で何かを伝える際、多くある言葉の中から実際に発する単語を選んでいることは、濁りをある程度まで濾過する行為であるとも言えるだろう。
また、言いまわしの訂正やことばの付け加えなど、その場で足りない情報を補完する、要は言い訳することができるのも、対話やおしゃべりの場に許されることで、文となればその方法は通用しない。つまり、書くこととはその都度で自分の考えを固定していく作業の繰り返しのことだ。

僕が文章を書くことに苦しむ理由はバケツから溢れ出してしまった言葉の多さにある。
自分の思慮をより深くまで理解されようと考え始めると、それが的確に表された言葉を探し始める。類語辞典を引くと、自分の考えがちょうどいい具合にまとまった言いまわしを見つけて(思い出して)、それを文章に取り入れると、むしろ当初の気持ちや主旨から遠のいている気がして、不和を感じることがある。表現の自由さがかえって何を言いたいのかを分からなくさせている感じがする。
谷崎潤一郎が、著作「文章読本」で現代における口語体の文章の放漫さに対して古典文の精神を用いて述べた文がある。少し長いが引用してみる。

”文章のコツ、即ち人に「分からせる」ように書く秘訣は、言葉や文字で表現できることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止まることが第一でありまして、古の名文家と云われる人はその心得を持っていました。それと云うのが、昔は言葉数が少い上にも前例や出典をやかましく云い、使う場所に制限がありましたので、一つの景を叙し、または心事を述べるにあたって、そういろいろな云い方がある訳ではなかった。”(谷崎潤一郎,1975,p33)

言葉というものは、時代とともにその数を増す。名詞や形容詞が次々と生まれ、外国語の翻訳が新語として国語になり得る。言葉が増える、自然とそれが僕らの表現法を豊かにしているのも事実だ。然れども、言葉を用いずとも泣く、笑うなどの表現をしてしまう僕らにとって、言葉が増えることで表現法を満たしきることは無い。


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