瀬良垣蒼葉の愛し方

 本稿は、BLゲーム ドラマティカルマーダーの主人公・瀬良垣蒼葉の手を取っては離した人について、そして彼自身について思うところを述べるものです。「これからドラマダをプレイするぞ!」という素晴らしい人にとってはネタバレ著しいことにご注意ください。


 瀬良垣蒼葉を知ってから3年、毎日瀬良垣蒼葉のことを考えている。本当に、毎日、考えている。精神的ストーカーだ。
 何を見ても瀬良垣蒼葉を想起する。子猫を見ては瀬良垣蒼葉を思い、空の青さに瀬良垣蒼葉を感じ、季節の移ろいに瀬良垣蒼葉を案じる。恋のようだが恋ではない。瀬良垣蒼葉は彼の恋人のものだからだ。
 ある日こんな言説を知った。「子どもは親から与えられた愛情を『愛のかたち』として認識し、他者を愛そうとするときもそのかたちで愛するようになる」。
 ネットサーフィンをしていたら目についたコラムにちらと書かれていただけで出典もなく、また私もこの言説を完璧に信じているわけではない。子どもの世界はいずれ親だけではなくなり、他者を意識的に愛そうとする頃には、親以外のあらゆる影響を受けた上で愛そうとするだろうと思う。
 だが「親の影響」がかなり大きいだろうことは想像にかたくなく、となると私は考えずにはいられない。「瀬良垣蒼葉はどのように愛され、どのように人を愛するようになったのか?」

瀬良垣蒼葉とその家族

 瀬良垣蒼葉は「尽くす愛」の持ち主であるように思う。愛情を持つ対象を脅威から庇う、入院している病院へ通う、生活用品を差し入れる、毎日食事を作る、傷ついた身体を直そうとする、身体を求められれば自然と受け入れる側に回る……。
 愛する人に出会うまでに自分を構成していたものを変えることを厭わない。そしてそれに見返りを求めない。瀬良垣蒼葉の愛は、無償の愛に近い(近いだけで、完全に無償ではないのだが)。

 それでいて彼は、愛されることにあまり慣れていない。正確に言えば「自分だけを一番に愛してもらうこと」「ずっと、ずっと愛してもらうこと」に慣れていない。慣れていないからそうされると戸惑い、相手が離れても憤り以上に悲しみと諦念を感じてしまう。

 瀬良垣蒼葉の「愛情観」を育んだものは何だろうか。前の言説に従うなら、やはり両親なのだろうか。
 瀬良垣蒼葉に生みの親はいない。そもそも人間の腹から生まれていない。試験管から生まれた赤ん坊の瀬良垣蒼葉は紆余曲折あり教会に預けられ、その後、育ての親に見出された。父親をナインといい、母親をハルカという。瀬良垣蒼葉はこの両親と、タエという祖母と共に家族として暮らした。全員に血の繋がりはなく、過ごした時間は短くとも、瀬良垣蒼葉の「愛される」原始的な体験は間違いなくここから来ている。
 両親は真っ当に瀬良垣蒼葉を愛したようだった。日々の料理を作り、風呂に入れ、抱き上げ、笑いかけ、父母と呼ばせ、子と呼んだ。祖母のタエも厳しくも愛情深く幼少の瀬良垣蒼葉に接したことが描かれている。
 しかし両親は幼い瀬良垣蒼葉の手を離した。父はもともと一か所に留まらない性質で、間もなく少しずつ家に帰ってこなくなり、遂には二度と戻ってこなかった。その前に家族へその旨を告げ、それを聞いた母は夫についていくことを決め、幼い瀬良垣蒼葉を置いて行った。
 二人に葛藤や悲しみがなかった訳ではない。子を愛していたことも事実だし、きっと今も愛している。
 けれど両親は、どうあろうと、「まだ子どもの子ども」を置き去りにした。その裏にどんな感情があろうと、理由があろうと、それは覆せない。家を出ると言ったのは父で、母はそれについていくことを決めたわけだが、本当に身も蓋もなく悪意のある言い方をするなら「子ではなく男を取った」のだ。
 幼い瀬良垣蒼葉はそれを受け入れた。両親が自分の手を離すことを、内心はどうあれ拒否しなかった。行かないでと縋りつかなかった。その背を見送ることを選んだ。

 それは、駄目だろう、と私はずっと思っている。
 私は保護者が被保護者のためにすべてを捧げるべきだとは全く思っていない。誰かを大切にしたいならまず自分を大切にする必要があると思うし、親子関係でもそれは当てはまると思う。時には子につらく当たってしまうこともあるだろうし、間違った言動をしてしまうこともある。人間なのだから。
 それでも、保護者であるなら「子が、親以外の健全な依存先を複数確立するまで」は守り育てるべきだと思う。手を離すのはそのあとのことだ。
 それを子ども本人が許したとしても駄目なのだ。そもそも子どもがそれを許してはならない。子どもは許される側だ。
 この感情は、義憤でもなんでもなく、祈りなのだろうと思う。「幼い子から手を離す保護者が肯定される世界であってほしくない」「子どもが、自分から離れる保護者を許す世界であってほしくない」、そうであってくれという祈り。

 この両親は確かに瀬良垣蒼葉を救いあげ、真っ当な愛情を与えた。それは間違いないけれども、幼い瀬良垣蒼葉の手を離したこと、それが彼の心の傷になったことも確かだろう。
 両親が幼い瀬良垣蒼葉を置いて行ったのは、彼の傍にタエがいたことも大きい。守り育てる存在が自分たち以外にもいたからが故に置いていく覚悟を決められたところもあるのだろう。
 タエもかつて瀬良垣蒼葉の手を離したのだが。
 タエは生まれたばかりの、息をしていない赤ん坊だった瀬良垣蒼葉を連れ出し、息を吹き返したその赤ん坊を教会に捨てた。いや捨てた訳ではない。タエにはタエの事情があり、それでもその生を望んで教会に預けたのだ。
 それは「遺棄」とどう違うんだ?
 大人のどんな事情も子どもにとっては知ったことではない。
 瀬良垣蒼葉がはじめに自覚した己の立ち位置は「唯一の親に庇護される存在」ではなく「団体に預けられた、親の顔も知らない孤児」だった。そこからナインらに拾われたことでまたタエの下に戻ったことは因果で、いちど放棄した責任が過去から追いかけてきたようだ。タエは瀬良垣蒼葉を生み出した機関の研究者でもあり、瀬良垣蒼葉を生み出した遠因はタエにもあるため、彼の「母」にもっとも近いのはタエであるとも言える。彼女は責任を果たすように、彼と再会して以降は彼の保護者であり続けた。しかしながら仕事もあり彼の側についていてやれない時間も長く、瀬良垣蒼葉は思春期を迎えた頃「グレる」という非常にわかりやすい歪曲の仕方をしてしまうのだが、その彼を引き戻したのはタエの涙だった。
 瀬良垣蒼葉はちゃんと、タエから愛されていたことがわかっていたのだろう。理屈だけでなく、感情の部分で、ちゃんと。だからこそ、言ってしまえば「たかが涙」で改心することができた。
 最初に瀬良垣蒼葉の手を離した彼女は、繋ぎ直してからは離すことがなかった。

家族ではなく他者として、瀬良垣蒼葉を通過した者

「瀬良垣蒼葉を通り過ぎた者」として、両親に並んで語りたいのは、彼の幼馴染である紅雀のことだ。
 幼い瀬良垣蒼葉のもとへ本土からやってきて、また本土へ去ってしまった紅雀もまた「大切な人が自分のもとを去る」経験を瀬良垣蒼葉に与えた人物ではあるが、彼が両親や祖母と決定的に違うのは「紅雀もまた、子どもだった」ことだろう。
 幼い瀬良垣蒼葉からすれば紅雀は「ヒーロー」であり保護者的な側面もあったが、それでも紅雀もまた庇護されるべき子どもだった。母親に依存していて(そうするしかなく)、自分の人生を自分で選ぶことがまだできない子ども。
 紅雀が幼い瀬良垣蒼葉から離れたのも本人の意思ではなく、母親と共に実家に帰らなくてはならなくなったからだ。大切な存在を奪われたのは紅雀も同じ。紅雀のことを責める気にはならない。離れたその手も小さかったのだから。
 何より彼は、大人になってから瀬良垣蒼葉のもとへ戻ってきた。自分の意志で、瀬良垣蒼葉に会いたくて、会いたいが故に生きながらえたために。
 紅雀に自死を思いとどまらせるほどに思い出が美しく心に生きていたことを瀬良垣蒼葉本人は知らない。知らないが、紅雀から大切にされていた、愛されていたことはわかっていたはずだ。その愛し方もまた「庇護する者」としての面が強かったため、その後の瀬良垣蒼葉自身の他者の愛し方に影響を与えた可能性はあると思っている。

「瀬良垣蒼葉との関わりが一時断絶したものの、また繋がった」者としては最後にもう一組、ウイルスとトリップがいる。
 彼らが瀬良垣蒼葉を愛していたか・愛しているかは解釈の分かれるところであり、私個人としては「あれは愛ではない」と祈っているが、どうあれ彼らも瀬良垣蒼葉の精神的支えになったのは事実だとも思う。
 彼らが瀬良垣蒼葉と出会ったとき、瀬良垣蒼葉は既に幼少期を脱し少年となっていた(それでも子どもだ)が、その寂しさを埋めたのも、壊れかけた瀬良垣蒼葉の精神を「記憶を消す」という力技で安定させたのもウイルス・トリップだ。
 記憶を消したあとしばらく瀬良垣蒼葉との関係は途絶えるが、彼らはまた瀬良垣蒼葉の前に現れる。その際彼らはスーツ姿のヤクザであり、実は瀬良垣蒼葉を生み出した組織に属してもいた。
 反社会的勢力になっていたウイルス・トリップに対し「久々に会ったらヤクザになってるな~」程度の反応しか返さなかったらしき瀬良垣蒼葉の危うさを見ることができる相手でもある。相手への寛容、悪く言えば鈍感さが悪い方へ行きついた世界線がウイルス・トリップエンド(バッド一択)になる。

瀬良垣蒼葉の愛し方

 瀬良垣蒼葉を拾い上げ置き去った者、一度は捨てた瀬良垣蒼葉が再び手元に戻ってきた者、引き離されたのちに自力で戻ってきた者、己の意志で離れ己の意志で近づいて来た者たち。
 瀬良垣蒼葉の人間関係は「離れる・繋がる」の繰り返しだ。それは彼の根本的な「自分はここにいていい」「何の条件もなく、一番に愛されていい」という自己肯定感の薄さに繋がり、与えられ、学んだ愛の真っ当さ(庇護する愛)と混ざり合い「愛した対象に過剰なまでに尽くす」愛情が発露したのではないか。 

 祖母のタエは蒼葉を愛し、瀬良垣蒼葉もまたタエを愛したが、2人はこれからもずっと共にいることはできない。タエはほぼ確実に瀬良垣蒼葉より先にいなくなる。そういう年齢差が2人にはある。
 まだ23歳に過ぎない瀬良垣蒼葉と「長く、共に生きていく」ことが初めて可能になるのが、ゲーム本編で結ばれる恋人たち、ありていに言えば攻略対象の男性陣だ。瀬良垣蒼葉は彼らと結ばれることにより「自分だけを一番に愛してもらうこと」「ずっと、ずっと愛してもらうこと」が叶う。
 お互い好きになる→そしてふたりはいつまでも幸せに暮らしました、とはいかないのがドラマダにおける現実で、瀬良垣蒼葉とその恋人は結ばれる過程、もしくは結ばれた後に精神的/肉体的な別離を経験するのだが。
 けれどもこの別離はただ悲しいだけではない。

 ドラマティカルマーダーのキャッチコピーは「俺がお前を『壊して』やる」であり、本ゲームでは「壊すこと」が一種の救い、打開策として機能している。
「破壊と再生」「死と生」、そして「別離と再会」がテーマとして裏側にあるのではないか。
 瀬良垣蒼葉は本ゲーム内の時間を通し改めて自立した大人として成長し、与えるだけではない、与えられる愛を知っていくのではないか。これまでのようなただ悲劇的な別離ではなく、未来を結実させるための別れの存在を知っていく。
 続編のタイトルがリ・コネクトであることを思うと私などは軽く吐きそうになるがあなたはどうだろう。私の自律神経はドラマダの支配下にある。

 瀬良垣蒼葉は愛する人だが、同時に愛される人でもある。
 私は本当は、瀬良垣蒼葉がどのように人を愛するかよりも、どのように人に愛されるかに興味がある。瀬良垣蒼葉だけを愛し続けてくれるのは彼の恋人たちだ。彼らは「瀬良垣蒼葉に愛されている」時点で圧倒的勝ち組、幸福で塗装された道を歩むことが確定しているため彼らのことはここでは心配しない。私が心配しているのは常に瀬良垣蒼葉のことだ。
 瀬良垣蒼葉は、俺は俺であるだけで愛されると言い切れるほど自己肯定感が磐石ではない。愛情深く尽くし、見返りを求めないが、同等以上の愛情を真正面から返されると場合によっては戸惑い、自分にそんな資格があるのかと不安定になり、かといって振り向いてもらえなければやはり自分は不要なのかと悲しむ。瀬良垣蒼葉の恋人も各個人ごとに愛し方が異なり、人によっては瀬良垣蒼葉の「面倒くささ」を突っついてしまう可能性がある。
 瀬良垣蒼葉はどう愛するか、ではなく、「我々は瀬良垣蒼葉をどう愛していくべきなのか」を議論するターンに移るべき時が来ている。恋人たちから見た瀬良垣蒼葉、自分なりに瀬良垣蒼葉をどう愛していくか、その余白がドラマティカルマーダーにはある。

 こうなっては「俺たちのそれからのそれからのそれから」、即ちドラマCD第二弾を出すしか道はないと思うが、どうだろう。映画化でも、ソシャゲ化でも構わない。
 ソシャゲにするのであればどうか天井はつけてほしいと願っている。【SSR 瀬良垣蒼葉(ウェディング)】を引くために青いカードを買いに走る自分の姿がありありと浮かぶからだ。
 画面のこちら側で祈る私たちの瀬良垣蒼葉の愛し方は、どうしても「金を貢ぐ」になりがちだ。瀬良垣蒼葉とその恋人には、どうか金銭的価値などに左右されない、互いのためだけの真の愛情を育んでほしい。


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