東ドイツの子供たち
月曜日恒例のベルリン郷土史勉強会に再び参加してきました。今回も興味深い話ばかりでしたが、特に東ドイツ出身の方の話が印象的でした。
①男性H氏 1952年東ベルリン生まれ
小学校5年生の時、チューリンゲン州でのクラス合宿に参加した。夢みたいに楽しい三週間はあっという間に終わり、再びバスでベルリンに戻って来た。その時、西ベルリンの国境に銃を持ったアメリカの国境警備隊がいてとても怖かった。彼らは容赦なく撃ち殺すと噂があったので、みんなでバスの中に身を沈めて隠れた。大人になってから、撃ち殺しているのは米兵や西ドイツの国境警備兵ではなく、東独の国境警備兵が逃亡しようとする自国民を撃っていることを知った。
②女性G氏 1944年東ベルリン生まれ
東ベルリンから西ベルリンに行くことは禁止されていたけれど、壁が出来るまでは比較的簡単に行けた。ただし、大きな荷物を持って東ベルリン市内を歩いているとシュタージ(東独秘密警察)に呼び止められ、荷物の中身をチェックされ、身分証明書を提示し、西側に逃亡する計画が発覚すると即刻逮捕された。1961年春、私が16歳の時、20歳の従姉妹が「西側に住む叔母のところに移住する」と言うので驚いたが、私も西ベルリンを観てみたいので叔母のところまで一緒についていくことにした。もちろん両親には内緒だった。従姉妹は荷物を最小限にし、現金は靴のかかと部分に細工をして隠し持っていた。電車に乗っていると、少し離れたところに座っている男がこちらをチラチラ見ているのに気が付いた。従姉妹もそれに気が付いて、私たちは次の駅で降りると、その男も降りてきた。シュタージに尾行されている!私たちは小走りにホームの階段を駆け下りて、別の電車に乗ると、その男も別の入り口から乗り込んできた。発車寸前に手動式ドアを開けて電車を降りて男をまくことに成功し、西ベルリンに入ることができた。当時は電話も持たず、手紙は検閲されるので、西ベルリンの叔母には来ることを伝えていなかった。住所は持っていたが、東ドイツ人は西ベルリンの地図を持つことを禁じられており、東独で買えるベルリン地図の西側は真っ白だったから、まず西ベルリンの地図を買った。人に聞きながらなんとか叔母の住むアパートにたどり着いたが、叔母は留守だった。隣に住む女性に尋ねると、週末はいつもクラインガルテン(賃貸型の小屋付き農園)にいるよと住所をもらい、行き方を教えてくれた。やっと叔母のいるクラインガルテンに到着した。叔母は驚き、ケーキとお茶を出してくれたけれど、私たちの突然の訪問は嬉しそうではなかった、と言うよりちょっと困っている様子だった。「暗くなる前に帰りなさい」と言われ、私たちはトボトボと東ベルリンに帰っていった。従姉妹は「今回は失敗したけど、次は絶対に成功させる。絶対に西に住むんだから」と揺るがぬ決意を語り、西ベルリンに行ったことは秘密にしてほしいと私に頼んだ。帰宅すると門限を破った私に父が激怒していた。母の話によると、戦争に行く前の父はユーモアのある優しい人だったけれど、戦争から戻ると大変意地の悪い男に豹変していたそうだ。でも私は意地の悪い父しか知らない。父は私にどこに行っていた、何をしていたと詰問するので、私は従姉妹と映画を見ていたと嘘をついた。「何の映画だ、あらすじを言ってみろ」私は適当にラブストーリーを考えて長々と説明し、その場を切り抜けた。それから何週間かして、母は私に「今月はあなたにお小遣いをあげてはいけないと父さんが言っているよ」と言うので、新聞を読んでいる父になぜかと尋ねると、こちらを見もしないで「嘘つきにやる金はない」と答えた。父は上映中の映画を調べ、そんなラブストーリーの映画はないことを確認したのだ。ますます父が嫌いになった。従姉妹は次の計画を秋に決行すると息巻いていたが、その年の夏にベルリンの東西を分ける壁が出来て、従姉妹の夢は1989年11月まで叶わなかった。
③①と同じ男性
大学生の時、研究グループでモスクワに数週間滞在することになった。ホテルとモスクワ大学の往復しか許されていなかったが、ある日、地下鉄の駅でロックコンサートのポスターを見つけて、どうしてもそれに行きたくなった。モスクワでロックコンサート!聞いたことのないソ連のロックバンドだったが、どうしても行きたい、いや、行かなくてはならない!私はホテルを抜け出して会場に行き、熱狂的な雰囲気を満喫した。その時、隣にいた西ベルリンからの大学生と意気投合してビールを飲みに行った。彼から自由を謳歌する西ドイツ人の話を聞いて、ああ夢のようだ、なんて素敵なんだ、と感動した。香港や日本にも行ったことがある、来年はアメリカに行くんだと話してくれた。それから私たちはそれぞれのホテルに戻っていった。彼は「西側からの観光客用」の豪華なホテル、私はドルや西ドイツマルクを持たない者用の安宿に。ホテルに戻ってベッドに入っても、朝までずっと眠れなかった。
以上です。私も胸がいっぱいになりました。教科書にはない、このような貴重な話を聞けたことには感謝しかありません。
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