見出し画像

『西部戦線異状なし』著者の妹・エルフリーデ

 『西部戦線異状なし』の著者エーリヒ・マリア・レマルク(1898〜1970)の5つ下の妹エルフリーデ・ショルツ(1903〜1943)についてはあまり知られていませんが、彼女の人生もまた波瀾なものでした。
 エルフリーデは4人兄妹の末っ子で製本業者である父親のもとで育ちました。子供の頃は病弱で、赤血球不足と骨が脆いために2年間半身不随で寝たきりの生活を余儀なくされたこともあります。
 意志の強いエルフリーデは何とか学校を卒業し、仕立て屋の見習いとして働き始め、1926年には当時のドイツの服飾産業の中心地ライプツィヒに、その3年後にはドレスデンに移って仕立て屋サロンを開業しました。
 しかし、このサロンはなかなか顧客を得られず、経営難に陥り、そのたびに兄のレマルクに無心していました。
 1928年に出版された『西部戦線異状なし』は世界的大ベストセラーとなり、ハリウッドでも映画化されて大成功していたレマルクは、しばらくはエルフリーデに経済的な援助をしていましたが、次第に疎遠になっていきます。その理由については後ほど書きます。
 ヒトラーが政権を掌握すると『西部戦線異状なし』は若者の精神を蝕むと焚書処分になり、レマルクはドイツ国籍を剥奪されて1939年にはアメリカに亡命しました。
 エルフリーデは1941年に軍楽隊の音楽家ハインツ・ショルツと結婚し、それからは仕立てサロンの経営も軌道に乗り始めます。
 しかし、エルフリーデは兄の影響もあってナチス政府を躊躇なく批判し続け、顧客や大家に「どうせこの戦争は負ける」「前線の兵士は屠殺場の家畜と同じ」と言ったことがゲシュタポに伝わり、1943年に逮捕されました。
 人民法廷で悪名高きフライスラー裁判長はエルフリーデに国家反逆罪で死刑を宣告し、絶叫しました。
「おまえの兄は我々から逃げおおせたが、おまえは我々から逃げられない!」
 1943年12月16日、エルフリーデはベルリン・プレッツェンゼー処刑場でギロチンにより処刑されました。処刑は判決から一ヶ月後に行われるはずでしたが、ベルリン空襲により二ヶ月後に延期されました。ナチス政府は遺族に対しても容赦せず、処刑の手数料495ライヒスマルクをエルフリーデの夫に請求しています。
 果たして処刑を待つ二ヶ月間、エルフリーデは刑務所で兄を恨んでいたのか、誇りに思っていたのかは知る由もありません。
 しかし、兄のエーリッヒ・マリア・レマルクは死ぬまで罪の意識に苦しんだといいます。
 妹の死を知ったのは終戦の翌年1946年のことで、すべては自分の責任だと日記に綴っています。
 レマルクが妹エルフリーデと疎遠になったのは、経済的に搾取されているように感じ、頼られることが鬱陶しくなったから、そして出自にコンプレックスがあったからでした。
 当時のレマルクはアメリカで次々と小説を発表し、映画化されてアメリカ社交界の花形となっていました。付き合う人々も経済界の大物、大富豪たちで、マレーネ・ディートリヒやグレタ・ガルボなどハリウッド女優たちと浮名を流す華やかな生活を送っていました。しかし、彼は常に「ドイツ人であること」「ドイツの片田舎の労働者階級の出身であること」に劣等感を抱いていたと日記には綴られています。
 妹の死を知らされて、レマルクがすぐに書き始めたのが『生命の火花』です。舞台は終戦間近のドイツの架空の強制収容所、ナチス親衛隊から残虐な扱いを受け、極限状態に置かれながらも人間性を失わない勇気ある被収容者たちの物語を、レマルクは収容所を生き延びた人々にインタビューし、何年もかけて書き上げました。本の最後には主人公に「人間性、寛容さ、そして個人の意見を尊重する権利のために」と言わせています。
 この小説はアメリカで出版された後、20カ国語に翻訳され、ベストセラーになりました。しかし、1952年にドイツ語で出版される際にはドイツの出版社は「エルフリーデに捧ぐ」の献辞の印刷を固辞しています。出版業界もまたナチスの民間に対する蛮行を隠蔽しようとしていた時代があったこともドイツ戦後史の汚点のひとつであると言われています。
 第一次世界大戦で多くの友人を失い、自身も重傷を負ったトラウマを抱えたレマルクが書いたのが『西部戦線異状なし』だったのですが、妹を失った苦しみもまた彼にペンを握らせたのでしょう。書くことは彼にとってリハビリの意味もあったのでしょうか。しかし、インタビューでレマルクはこう述べています。「表現したいことを表現したからと言って、抑圧された不安は消えるわけではない」
 1998年、「ナチスによる不当判決の撤廃に関する法律」が制定されました。これはナチス人民法廷によって死刑判決を受けた脱走兵、反体制派、ユダヤ人を匿った者など約3万人の軍人、民間人に対する不当な有罪判決を取り消すものです。これによって、ようやくエルフリーデの名誉回復が行われたことになります。
 エルフリーデの遺体は処刑後、直ちに解剖学者に引き渡されたことがわかっていましたが、その解剖標本がベルリンの墓地で発見され、2019年にようやく埋葬されました。
 現在ではドイツ語版の『生命の火花』にも「エルフリーデに捧ぐ」の献辞が印刷されています。しかし、レマルクに関する文献は数多くありますが、エルフリーデの生涯についてはあまり知られていません。輝かしいキャリアを築いたレマルクとは対照的な人生の終わりを迎えた妹エルフリーデ・ショルツ。意志が強く、ファッションセンス抜群で独立心旺盛、禁じられていた外国のラジオを聞き、当時としては珍しく2度の離婚を体験し、朗らかに自分の店を切り盛りしていた女性。エルフリーデの力強い人生の軌跡もまた、私を惹きつけてなりません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?