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お試し版P.Name歌会記録

 皆様はじめまして。総合表現サークル"P.Name"会員のささどと申します。
 2024年6月29日に、"P.Name"のDiscord上で、歌会を開催いたしました。この記事はその記録でございます。
 歌会とは短歌に関する集まりで、参加者それぞれ短歌を提出、それを相互に批評するという会のことです。
 主催のわたくし自身歌会の経験はなく、参加者たちはそもそも短歌実作の経験もほとんどない者が多く、探り探りの実施にはなりましたが、楽しんでいただければ幸いです。


開催要項

 日時:2024年6月29日 21時より
 場所:"P.Name"Discord上
参加者:ささど、現野未醒、Kuramochi、紀まどい、篠崎亜猫、セツナ
テーマ:夜

 最初にささどより短歌についての軽い説明があり、作歌時間を20分ほど取り、事前提出分もまとめて詠草を公開、鑑賞・投票時間をとったのちに評に移りました。今回はテーマ詠とし、テーマを「夜」に設定しました。

参加者紹介

【ささど】
主催・司会。
作歌は2022年秋ごろから。歌会経験はなし。
"P.Name"にて公開した小説に「花火とその余熱」、短歌連作に「月はみつきみ」「如月と春」。
好きな歌人は佐佐木幸綱、千種創一。
ゲームばかりしている。

【現野未醒】
主な創作ジャンルは小説・イラスト。
作歌経験は多分ほとんどなし。
"P.Name"では複数の企画を担当しており、精力的に活動している。"P.Name"にて発表した作品に「想月記」。
近代文学が好きらしい。

【蓬 Kuramochi】
今年度入会の新入会員。
“P.Name”ではTRPGの企画をしている。
作歌は初めて。

【紀まどい】
"P.Name"会長・文芸局長。
作歌経験は多分ほとんどなし。
"P.Name"にて発表した小説に「ハロウィン相談所」「嫉妬なんかと一緒にするな」「地球の子」など。演劇関連でも多数の活動あり。
カンザキイオリと大森靖子が好きらしい。

【篠崎亜猫】
今年度入会の新入会員。
主な創作ジャンルは詩で、"P.Name"内外で詩を発表している。前年度以前は「すばる座プロジェクト」に参加。
作歌経験はありそう。

【セツナ】
今年度入会の新入会員。
主な創作ジャンルは小説・短歌。作歌経験あり。
この夏留学するらしい。

詠草一覧


宵闇や音に頼れば広がるはわが町並み也汽車の駆け抜ける

ささど 結構好き。全体的な文体の固さと詠まれている内容の相互関係がよく、特に文語的表現が表象とよい関係を築いている。「汽車の駆け抜ける」の字余りが結句を重くし、「汽車」の重量感を強調している。

 「宵闇」「也」が表象と互恵にあるか、あるいは陳腐な表現であるかと感じるかが人それぞれであると思う。使われている言葉自体は現代的で、また基本的には観察的な一首である。その中の「駆け抜ける」という語、またそれが字余りを起こしている点は秀逸。「走る」という行動を飾るような「駆け抜ける」という語は、「わが町並み」である郷里への愛を強調している。

現野 自分の住む町では、夜に電車の音がよく聞こえてくる。「夜に汽車が駆け抜ける」という表象が、汽車の音が町に広がる情景を想起させる。「a」音の重なりに何かひっかかりを感じる。


「ほらおいで今なら大人にバレないよ」僕はあなたの秘密基地へと…

 歌末の「…」が生み出す、鑑賞者に共有されない続きの存在の提示がよい。また「」で括られた部分がそこに至るまでの文脈を感じさせ、前後ともに空白があり鑑賞していて面白い。

ささど 上の句の生み出す雰囲気、想起させる情景がある種官能的で、「あなたの」秘密基地であるところが想像のフックとなっている。最後の三点リーダは一考の余地あり。なくても音的な歌末である「へと」が強い余韻を生み出してくれる気がする。

篠崎 三点リーダが詠み手固有の文体であるような感覚がある。俗な話だが「おねショタ」や「幼馴染」の関係を想起させる。


外をみれば信号と灯りのとげとげ ナイトモードに「ねれない」と吐く

蓬(選) とげとげという表現、「ねれない」というひらがなの表現が、頭がふわっとするような夜の思考の曖昧さの表現となっている。

セツナ 「夜のふわっとした感覚」はKuramochiに同意。「信号と灯り」が情景をうまく想像させる語である。「信号」であることで表象としての町が少し都会に寄っている。


北野川蛍も見えぬ手の先に疾る痛みやただの蚊の群れ

篠崎 「北野川」は神奈川県? 「都会の町で川に行き、蚊の群れに出くわしてしまう」と詠まれている情景が美しくないのが面白い。「北野川」という具体的な場所の指定には、何か意味があると思う。

現野 「北野」の川で京都の話なのでは、と感じた。蛍の出るような都市部から離れた川・小川なのでは。

 情景がかなり想起しやすくできている。儚さとシュールさの合わさりがよい。


うらめしや~ う、うらめしや、うらめしや……かまってくれよ呪い殺すぞ

現野 作中主体が人なのか、幽霊なのか確定できない点に面白さがあり、うらめしや、に言いよどみがある点や、下の句「かまってくれよ呪い殺すぞ」にある種の生命力が宿っている点が秀逸。かわいげのある一首。

ささど 上の句がリフレインのみで構成され、そのニュアンスが記号によってグラデーションのように変遷していくのが面白い。定型句としての「うらめしや」が音感的には上の句を支配しており、記号などによる意味づけ以外に大きな意味がないのも秀逸。そのグラデーションと、「うらめしや」と「呪い殺すぞ」のギャップによって、段階的に詠まれている感情がこちら側(生きている人間側)に接近しているような感がある。

セツナ 上の句・下の句間の空気の違いが面白い。自身なさげな「うらめしや」のリフレインと「呪い殺すぞ」の力強さのギャップがよい。そのギャップを支えているのが結句で以前で全く使われていなかった漢字が急に用いられる点であると思う。


月光る屋根の上にてランデブー猫の歌聞く寝床で独り

 映像的な一首。初句から結句に至るまでの視点の移動が「月―屋根の上―寝床」と直線的、垂直的で情景の作り方に技巧を感じる。

ささど 紀に同意。歌の作りと鑑賞者の視点がリンクしている。上の句の「猫」と下の句の「独り」は対比関係にあり、また位置的な面においても上下という構成もその対比を強調している。「月光る」も、月の光を直接受けるであろう「猫」と窓からの光を受けるしかない「独り」との対比を生み出していると感じる。助詞の省略に一考の余地あり。「月光る」と「猫の歌聞く」は助詞を省略することで定型にあてはめているが、対比関係を強調するなら、下部の助詞省略はしなくても定型の効果を呼び出せるのではないか。

篠崎 映像的、という意見があったが、どちらかというとまんがっぽさを感じた。最近のまんがではなく、少し古い少年まんがのような印象。悲観的でなく少しコミカル。「ランデブー」がそれを導いているのかもしれない。


流れ星願うは進歩か現状か夢見る夜に現の恋かな

現野 「進歩か現状か」の硬さがよい。漢字表記が硬さを作っているが、それが選択の重大さを表現している。「進歩か現状か」が硬く現実的であるのに対し、「夢見る夜に現の恋かな」が抽象的で質量を感じさせない、その対比がこの一首の特色であると思う。「to be or not to be」的なものを感じる。

セツナ 星になにかを託す、という考え方が好み。「恐怖」と「熱」を読み取った。友情で留めるか、恋愛に発展するか、という恋の歌か。

 構造が面白い。「進歩」「現状」の対比によって、まず一首の構造を提示し、そして「夢見る夜」「現の恋」がきている。「夢見る」ことは進歩であり、「現の恋」は現状であるから、ここも対比的。下の句からは「夢うつつ」という語が見いだせるし、上述の構造やそれが連想させるものが作中主体のまどろみを表現している。


蚊帳の外、きみに触れたいぼくは蚊です。煙に巻かれて死にたいのです。

ささど(選) 作中主体はおそらく「自らを蚊と見立てる何者か」であるが、その婉曲が生み出す空白が面白い。意味的には「煙」であったり夏の夜という舞台であったりが湿度を上げているが、音韻的にはk音が頻出であり、音によって作中主体の持つ感情が意味的なそれよりもさらりとしたものになっていると思う。

篠崎(選) 作中主体はおそらく人。「きみ」にとっての「ぼく」がよい存在でないということが連想され、「蚊帳の外」もそれを強調する。「煙に巻かれて」は蚊取り線香を連想させるが、この部分は「ぼく」のことを煙にまくような「きみ」の人間性の表象にもなっていると思う。

現野 望み薄な恋の表現でありつつ、「あなたのためなら死ねます」的なある種の献身の表現にもなっていると思う。血を吸う蚊は全てメスであり、作中主体は女性であるということもありうる。刹那的な願望の表れであるように読めた。


問.仏蘭西と月とどちらが遠い。愛の総重量も求めよ。

ささど 上手い。意味的に見たときの初句「問.」の破調が面白い。数学的な印象を持たせる文体で取り上げられる「仏蘭西」や「月」「愛」といった語句が、機械的な要素として取り込まれているのが印象的である。「愛の総重量も求めよ。」の句またがりが四句目・結句に重みを生み出しており、意味的な部分と連関を成している。「愛の総重量も求めよ。」は自己の再認識なのでは。愛しいものが遠くにある、という前提のもと、そのものに自身が抱いている愛をもう一度自身に問い直しているのだと思う。文体が作りだす機械的な雰囲気に作中主体(あるいは作者)の持つ感情が上手く当てはめられている。

 上の句と下の句の差が面白い。「仏蘭西と月」の並列的な提示で一瞬ひっかかったあと、「どちらが遠い。」でその並列の意味・意図が示される、という構造が上手い。「仏蘭西」が漢字表記であることも以上の効果を高めていると思う。「愛の総重量」が出てくる文脈が読み取れなかった。

 個人的な恋を詠んだものであると思うが、それを特殊な形式――万人に向けられる「設問」という形式――に当てはめているのが面白い。題材とされた個人的な恋について、読み手にも考えさせるような文体・形式の妙がある。


眼前の閉じられし門金備へ拝して願う能吏の鎮魂

ささど 名詞がかなり重たく、比較的自己の感情や主張が表に出てこない歌。一般性が高い。全体的な名詞の配合や体言止めが目立ち、全体的なまとまりはよい。しかし、体言の重みによって一首中の動きが小さすぎる気がする。歌末「鎮魂」はよい。

 少し意味を解するのに苦労がいる歌だと思う。特定の知識や教養を必要としている気がする。題材として具体的なエピソードがあるのだと思うが、それを知らない人はおそらくピンとこない。上の「一般性」とはそういうこと。それを知らない人でも理解できるように、題材となったナラティブを直接詠みこんだ方がよい。

現野 具体的な地名は出ていないが、北野天満宮であるように感じられた。菅原公について詠んだ歌であるのであれば、その人を想起させる要素をもっと入れてもいいと思う。詠まれている場所についても、それが示唆されるような要素を入れてみてもいい。


真っ赤な桶 旧友が誘ったはなび 火だねがぬれた時のあと味

現野 「真っ赤な桶」は防火バケツか。それぞれの句の体言止めが情景描写的。「桶」の赤と「火だね」の赤の連関が面白い。「旧友が誘ったはなび」の持つメッセージ性に空白があり、そこの余地もよい。四句目・結句から想起される名残惜しさがその空白に接続しており面白い。

 「火だねがぬれた時のあと味」がよい。「あと味」は実際の味ではなく音なのでは。火を消したときに「花火が終わったあと」という時間が訪れるという仕掛けが面白い。初句から三句目までは作者の個人的な経験か。一般化されていないと感じられる。

篠崎 Whiteberry「夏祭り」を連想した。「あと味」は何かの比喩であり、名残惜しさ、物足りなさを想起させている。青春っぽさがよい。


(まだそこにいますか) 繁華、透明のコートをはおるときみも夜、夜、

紀(選) 括弧を使っているのが好き。「繁華」という語の使い方がよく、また「夜、夜、」というリフレインに楽曲っぽさを感じる。ボーカロイド楽曲っぽい。躍動感、みずみずしさ、若々しさが特殊な形式を使いつつも崩れていない。「コートをはおる」という語句は「(まだそこにいますか)」が連想させる喪失と合わさっており、何者かがある種の防備を施して夜に向かっていくような印象を受ける。では「透明のコート」とは何か、というところに遊びがある。「透明のコート」とは雨合羽であると思う。夜に向かう準備動作として身を守るためのコートを羽織っているわけであるが、その夜の持つ攻撃性と雨とが重なりあい、面白い。そういう読みをしたとき、「雨合羽」の持つ幼さが、夜に向かっていく対象の抱く危なっかしさの表現にもなっていると連想することもできる。

篠崎 「透明のコート」は物理的なものでなく「透明を着る=着ない」ことの表現であり、「ありのままの姿で向かっていくと夜の一部になっていく」ということなのではないか。

現野 「(まだそこにいますか)」が括弧に閉じられており、実際に発された言葉でないような印象があることから、作中主体はもうそこにそれがいないことを知っているのではないか。面影を探しているような印象。それ以降は全体的にかなり抽象的で、情報量を絞って鑑賞者に考えさせるような意図があるのではないか。「夜、夜、」のリフレインは「(まだそこにいますか)」とつながっており、「いないことの確認」としてリフレインが機能しているように感じられる。


月明かり照らされるのは我のみかなき彼をまだ覚えている日々

セツナ(選) かなり共感できる歌。自身の経験に重なる部分がかなりある。

現野(選) セツナに同意。自身の経験とかなり重なった。大切なものを失ったときの感情や思考が表現されていると思う。「なき彼をまだ」の部分に関して、「死」を直接に表現していないのにそれを感じさせるところがよい。

ささど 「月明かり」というぼんやりとした雰囲気をもつ光が歌全体にかかっている印象。「なき」がひらがなであるところがそれを強調していると思う。また、「まだ」という副詞も面白い。いつかそれを忘れてしまうことの暗示になっており、自身は進まなければいけないことの認識を感じる。「日々」も自身の生活が継続していくことを強調する語句として機能している。「日」と「月」も対比であると思う。

作者公開

総評

 手探りの状態で進めた歌会ではありましたが、良い感じに進行できたと思います。
 集まった詠草に関しては、短歌を専門としない参加者が多いからなのでしょうか、「言葉派」的な作品が多かったように思います。近現代短歌に触れた経験が少ない者の作品も、定型や語句に対する認識が初心者っぽいそれではなく、意外でした。特に定型に関わる認識については、散文という自由度の高い領域にいるからこそ、文章表現の幅広さを心得ているのではないかとも考えられました。
 評についてはその作品の背景情報や物語性について言及するものが多く、短歌定型に特有の情報量の少なさからなのか、その解釈に大きな差異があらわれる歌もありました。「歌評」というのはかなり難しいものですが、慣れない経験であったでしょうが各人上手く歌を鑑賞して表出してくれたように思います。
 本記事は以上になります。参加者の皆様、またこの記事に目を通してくださった皆様に感謝を申し上げます。

文章:ささど

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