誕生日おめでとうも言えないこんな世の中じゃ

誕生日おめでとう!!

という言葉は誰かを祝うとき、または祝福してもらう言葉の一つで、大半の人が人生で一度は言われたことのあるものだ。基本的に言われて嬉しい言葉であり、誰かに言うのを惜しむ必要の無い特別な台詞だろう。(ここでは「誕生日、なにがめでたい」「年齢を重ねることは老いること」等の天邪鬼的な思考は捉えないことにする。)

好きな芸能人、俳優、アイドルらの誕生日を無意識的に覚えてしまうようなこともある。かくいう私はスポーツ観戦が趣味で、昔からよく選手名鑑を見ていたことから、選手たちの出身地や誕生年月日を無意識的に記憶していることが多々あった。

ただ、私のような者にとってこの言葉は、時に人間関係の「隙間」を露呈させてしまう恐れがある。大学のゼミで一緒だった学生の誕生日を、ファンであるスポーツ選手の生年月日と紐付けて覚えてしまっていた。

そんなことを考えずに祝福の言葉を投げるとどうなるのか。
相手は「ありがとー!でもなんで知ってるの?教えてたっけ?ちょっと怖いかも笑」という喜怒哀楽を一遍に体験できるような言葉で反応してきた。

その通りである。
直感的に「やってしまった」と。
「言うべきでは無かった」と。
恥ずかしさで挙動不審になっていたと思う。
素直に「飲み会の時に自分で言ってたよ笑」と教えたものの、それはやはり「怖い」と思うものである。逆の立場で考えると尚更。
そこまで仲良くない人に、1つの立派な個人情報を握られているのだから。

友人が多くない私でも、「覚えててくれた!嬉しい!!」ではなく「なんで知ってるんだこいつは、、、」とそう思う。
実際に高校時代、嫌いな同級生から誕生日を祝われたときに「この人の記憶から私の誕生日を抹消させる方法はないものか」と真剣に考えていたことがある。つまりはそういうことだ。記憶してくれなくて良いのに、と思う。

誕生日は本当にめでたい。

1年にたった1度の日、産まれてきたことを祝われ、改めて親に感謝し、ケーキなんかを食べて、プレゼントとかを貰って過ごし、当人はハッピー。そういう日でなければいけない。そういう日には選別された「誕生日おめでとう」がふさわしく、それ以外は不要。祝われたところで「怖い」と感じてしまう人からの祝福なんて、受け付ける必要も無いのである。1年に1度の大切な日なのだから、それくらい許されるでしょというメンタルで生きるほうが正しい。たった11文字で、その素晴らしい1日を台無しにしてはいけないと実感してしまった。
いや、実感できる人と実感しない人(実感することの無いキラキラタイプ)がいるんだろうなとも考えられるか。

まぁゲーム機に誕生日を登録してたらゲーム内で祝われたり、対面ではなくSNS等で交流のある人から祝われて悪い気はしないんだろうけど、その話はまた別物。

私は、学生を卒業して社会人になった。
親族や本当に仲の良い友人以外は、人の誕生日を祝わないで過ごしている。
SNSに誕生日を登録することも無いし、誕生日当日にアプリから風船が上がっている知人を見ても何も言わない。
私に祝われたことも忘れ、私の誕生日を何事も無くスルーしていくあの空気を、学生時代の思い出と共に心に閉ざしたい。彼らからしたら、私は「選別されていない」方だっただけ。そう理解すると、少し気分も晴れるものだろうか。
毎年私が心から祝福を捧げられる少数の友人と親族、逆に毎年私を祝ってくれる友人と親族がいるから、多分私は幸せなのだと思う。
そう思うことにしている。

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