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才能を感じる歌詞を理詰めで作る【DTM初心者向け】


僕は歌詞書くのがとても好きだ。
だって音楽ってことに託けて何でも言えるから。

世の中では『歌詞は才能』と持て囃される風潮がある。多分、小説家は天才、みたいなのと混合されている。
小説の世界がどうかは知らないが歌詞に関しては確実な手法というのが作詞家の中に存在しているはずだ。
じゃないと、商業でやってる人とか死ねるでしょ。毎度毎度指定されたテーマで大量に書くんだから。

なので今回は、僕が実際にやってる具体的な手法についてのお話。

❶まずは心構えの話

まず、僕らは商業作家じゃない。それを念頭に置くべきだ。
将来そうなりたいって人はいるだろうけど、少なくとも今では無い。
だから間違った言葉を扱うことを恐れてはいけない。行儀の良さを意識する必要はない。正しい言葉遣いをする必要はない。使ってはいけない単語は存在しない。

それから、今からするのは歌詞の話で、詩ではない。歌詞と詩を混同してしまうとホントに大変なのでハッキリさせておこう。

詩はあくまで言葉だけで成立させなきゃいけないもの。
歌詞は音楽に乗ることが前提となってるもの。
歌詞を普通の詩のように書くと、最悪の場合『セリフがめっちゃ長くて説明口調すぎる漫画』みたいになる。絵があるんだから、そんな長々説明しなくて良くない?となる。

その辺を頭に入れた上で話を進めていこう。


❷小手先の話

まずは小手先のテクニックについてのお話。小手先と言えば少し皮肉った感じがあるが、要は簡単に最小の手間で少しクオリティを上げる術だ。

次のような歌詞があったとしよう

1人散歩しながら考える
この歌を誰かに届けたい…
色々な人生を過ごす人達に
私の歌を聴いて欲しいから…
だから歌うよ

はい、これ。

これを見て「うわー!いい歌詞だなぁ!」と思った人は居るだろうか。
多分、居ないと思う。

なんなら、共感性羞恥のような症状が出て「見てられない」ってなる場合すらあるだろう。誤解を恐れずに言うとキショいのだ。

ではこれを「見れる」レベルにしていく。

①『…』を使わない

三点リーダを使う意味は無い。
なんとなく言葉尻が物足りないから、なんとなく余韻を見せたいから、などの理由で入れてると思うのだがやめた方がいい
そこに含ませたい意味はサボらずにちゃんと書いた方がいい。

三点リーダを使って許されるのは実績のある人だけで、僕ら初心者がこれをやると総じてキモいのだ。
なぜ三点リーダが許されないのか。それは僕ら初心者では効果的に使えないからである。

例えば、サザンオールスターズが三点リーダを使うとする。僕らは桑田佳祐さんを知っていて、今までの華やかな曲達もなんとなく知っている。その人が三点リーダを使うならば意味があるはずだ、と考える。だから深みがあるように感じる。

これを初心者の人が使うとどうだろう。
僕らはその人を知らないし、何のバックボーンも見えない。だから味がしないし、中途半端な自己陶酔に映ってしまう。

なので絶対とは言わないが強烈な意図が無い限り、使わないこと。


②共感出来る要素を入れる

「1人散歩しながら考える、この歌を誰かに届けたい…」

この文章、何か共感出来る要素があるだろうか?
もしかすると、この記事を読んでる共感力の高い人なら出来るのかもしれない。

しかし、よーく考えて欲しいのだが
散歩しながら「あー、誰かに歌聞かせてーなー」って思う人なんかめった居ないのだ。

上で挙げた共感出来た人も、多分作詞作曲をやってるorやろうとしてる人なのだ。普通のリスナーは共感出来るワケ無いのだ。

しかもぶらぶら散歩しながら考えることが『誰かに歌を届けたい….』みたいに深刻で切羽詰まってそうで使命感のある事なワケないのだ。何をどう擁護しても、そうはならないのだ。

この場合は『散歩』と『誰かに歌を届けたい…』が余りにも噛み合わない為、共感が出来ないと纏める。

では共感してもらうにはどうすれば良いのか。

大きくわけて2つのパターンがある。
1つは『聴き手の経験に寄り添う』
もう1つは『曲中の登場人物に感情移入させる』の2つだ。
当然これだけではないが、今は一旦この2つを覚えておけば大丈夫。

『聴き手の経験に寄り添う』のは
例えば、水が冷たいとか、夏は暑いとか、失恋して泣くとかだ。皆がなんとなく想像出来たり経験してたりする範囲のことを言う。

『登場人物に感情移入させる』のは
曲の登場人物、私なり僕なり君なり貴方なりがどのような人なのかを歌詞内で示して知ってもらうことを言う。
この手法を徹底した歌詞で有名なのはBUMP OF CHICKENの『K』だろうか。あそこまで描ききらなくとも少し説明してあげるだけでだいぶマシになる。

さて、これを踏まえた上で修正していくとしよう。

1人散歩しながら考える
この歌を誰かに届けたい…

この文はまずもって圧倒的に情報が無い。
どこを歩いてるのかも分からないし、ポジティブなのかネガティブなのかも分からない。
その辺を整理してニュアンスを加えてみよう。
まず、季節感を追加してみる。

もう紅くなった街路樹を見た
この歌を誰かに届けたい

とりあえず秋っぽい季節感を追加した。紅くなる樹木なんて大体は紅葉だから秋と分かるはずだ。
また散歩というとどうしてもポヤポヤ感があるので『街路樹を見た』で、なんとなく外にいるという雰囲気を出す。街路樹を見るのは基本的に外だからだ。家の中から見るならベランダにいる必要があるので、説明が無ければ外に居るんじゃない?となる。

これは全て聴き手の経験によって分かるものだ。逐一「秋の散歩道に紅葉が生えておりまして、ワタクシはそこを歩いておるんです」なんて言う必要は無い。

さて、文章的にはややネガティブっぽいが、そこをハッキリさせておきたいのでニュアンスを追加しよう。

もう紅くなった木枯らしを聞いた
この歌を誰かに届けたい

ということで「街路樹」を「木枯らし」に変更した。季節が晩秋に寄って、ひんやりしたニュアンスが付いた。「木枯らし」と聞いてハッピーな印象がつくのは童謡の『たきび』くらいなので基本的には寒さが持つ寂しめの印象になる。厳密に言うと木枯らしが吹いてる時点で紅葉は紅くなってるに決まっているのだが、秋のニュアンスは残したいのでこうする。
これで文章は明確にネガティブに寄った。

また街路樹を木枯らしに変更したので自然と「見た」から「聞いた」に変わった。が、これは「見た」のままでもまた面白いニュアンスになるかもしれない。

さて、次は「この歌を誰かに届けたい」の部分に手をつける。
これはもう正直だいぶキツい。歌を届けたいだの、この唄を歌うよだのは食傷気味になるくらい凡庸な表現だ。

このフレーズを使う場合は前後で相当うまくやらないと一気にありふれ感が出る。今回は前の方で上手くやれてる感じはない。
なので大きく「歌を届けたい」から「誰かと話したい」に変更する。ニュアンスは遠からずだと思う。

もう紅くなった木枯らしを聞いた
少し君と話したくなった

どうだろうか。ちょっとはマシになったのでないか。
歌を歌いたいとか届けたい気持ちは共感出来ない人も居るだろうが「少し話したいなー」って気持ちは皆経験があると思う。
そしてその経験はなんとなく寂しい、から来てることが多いと思う。これが前に置いておいた晩秋の肌寒い表現に重なる。
また「届けたい」から「話したくなった」に変化したことで、「聞いた」と同じ母音で終わることが出来たのでリズムが生まれている。

リスナーはこういったことを言語化こそしないものの、必ず感じ取っている。それがあまりにも感じ取れない上に謎の自己陶酔があると、キショくなるのだ。相手の事を考えず、よく分からない話をずっとしてる奴になってはいけない。

もう紅くなった木枯らしを聞いた
少し君と話したくなった
色々な人生を過ごす人達に
私の歌を聴いて欲しいから…
だから歌うよ

さて、現状はこうだ。少し見れるようになってきた。
「色々な人生を過ごす人達に、私の歌を聴いて欲しいから」の部分を修正していく。

まず、頭2行が変わったところで文章に一切繋がりが無くなった。なんてったって「歌を届けたい」が消えたからだ。

この文の言いたいことは「色んな人がいるよね」「そんな人達に何か歌いたいよね」「だから歌うんよね」くらいの話だ。

とりあえず頭2行で少し世界観が狭くなってるので「人々に何か伝えたいよね」はカットする。そういうのは2番とかで視点広げてからやって欲しい。
最初の展開を踏まえて内容を「色んな人がいるよね」「そんな人達もまた少し寂しそうだよね」に変更する。

もう紅くなった木枯らしを聞いた
少し君と話したくなった
行き交う顔も下を向いていた
少し距離が近付いた気がした
だから歌うよ

こんな感じにしてみる。
なんか、だいぶ見れるようになってきた。

色んな人を十把一絡げに「行き交う顔」とした。外で見る人なんて大体歩いてるからだ。
その人達も下向いて歩いてるから、まぁなんか寂しそうでちょっと共感できるよね、みたいな展開にしてみる。

ここで「だから歌うよ」と来れば、正直まだ「?」とは感じるが、なんとなく人やシチュエーションが見えてくる。
ようやく歌詞らしくなったワケだ。

とはいえまだ「?」って感じなので、僕なら最後の一文をこうする。

もう紅くなった木枯らしを聞いた
少し君と話したくなった
行き交う顔も下を向いていた
少し距離が近付いた気がした
今、息を吸い込む

一見、おや?って感じの一文で締めを作り想像の余地を持たせた。この後歌ってもいいし、喋ってもいいし、冬の冷たい空気を感じるだけでも良い。
それに、ここまでこの歌詞主人公的な人は自発的な行動が1つも無かったから、現在形の分かりやすい行動を取らせるのが印象的になるだろうと予想してこうした。

さて、こんな感じで原因と対策で歌詞を修正していった。ここで修正前と修正後を比べてみよう。

1人散歩しながら考える
この歌を誰かに届けたい…
色々な人生を過ごす人達に
私の歌を聴いて欲しいから…
だから歌うよ

↓↓↓↓↓

もう紅くなった木枯らしを聞いた
少し君と話したくなった
行き交う顔も下を向いていた
少し距離が近付いた気がした
今、息を吸い込む

こうして見ると、本当にだいぶ見れるような歌詞になったのでは無いだろうか。
歌詞に対して感性とかではなく、理性で過不足を考えて修正しただけでこうなる。
これが小手先のテクニックだ。


❸センスがある歌詞の定義


これで、とりあえず普通の歌詞は出来るようになった。しかし、本記事のテーマは才能を感じる歌詞である。
つまるところ、ここからが本題だ。

才能を感じる歌詞を僕は次のように分類している。

①ワードセンス型
とにかく抜きん出た表現やスパイシーな単語など、言葉自体の強さで殴ることで「ハイセンスだ…」と感じる型。
(例)
きゅうくらりん - いよわ
ロックンロールイズレッド - バズマザーズ

②雰囲気テラー型
単語やセンテンスを単体で抜き出しても普通に感じるはずなのに、全体の流れで見た時に雰囲気がありすぎて「かっこいい…」となる型。
ストーリー仕立てもここに含まれる。
(例)
若者のすべて - フジファブリック
家族の風景 - ハナレグミ

③テクニック型
シンプルに日本語表現が上手く、暗喩や倒置を始めとした語学力の高さ故に「良すぎる…」となる型。
(例)
ループ - 坂本真綾
カブトムシ - aiko

④宇宙人型
本当に申し訳ないことに魅力を体系化するには僕の頭脳や語彙が足りない型
(例)
夢みる機械 - 平沢進
Honnoji - ZAZEN BOYS



「いやいや、それはそこじゃないだろ」とツッコミたくなる皆様のお気持ちも分かるが、一旦この場ではこうさせて頂く。

さて、この4つの型に分類した。
この中で理詰めで作れる可能性があるのはどれか、考えてみよう。

①ワードセンス型、これは恐らく理詰めで作れるだろう。きゅうくらりん みたいにこの世に存在しない言葉は難しいかもしれないが強い言葉や意外性のある言葉は、(比較的)簡単に作り出すことが出来る。
空飛ぶかき氷シロップ、みたいなことである。

②雰囲気テラー型、これは恐らく厳しい
人生経験や思想などが重要になってくる為、理論立てて考えることが出来ない。なぜなら僕ら初心者は経験が無い上に、知らないことは歌詞に出来ないからだ。

③テクニック型、これも厳しいが取り入れることは出来そうだ。要は日本語勉強すれば良いだけだ。高校まで卒業すれば正味12年国語をやっている僕達には、まだ可能性がある。

④は無理。僕が解説を出来ない。

ということで、ここではワードセンスのありそうな雰囲気とテクニックがありそうな雰囲気の出し方を理解することで、才能感じる歌詞を作れるようになろう。

❹本題:才能を感じる歌詞の書き方


人が何かを評価する時、おおよそ以下の要素が大事になる。
①印象に残ったか
②良い気分、または悪い気分になったか
③目新しさがあるか
④何かを理解出来たか
⑤それを「良い」と言うことにメリットがあるか

こんな感じだ。1つずつ解説とある程度の解答を記述する。

①印象に残ったか
分かりやすい項目だ。視聴後にもハッキリと頭の中に残る何かがあったかどうかを意味する。
ワザと印象に残す為のやり方をフックと僕は呼んでいる。
これは正にワードセンス型が得意とする項目で、意外性に富んでいる言葉で引っ掛ける。

②良い気分、または悪い気分になったか
少し回りくどい表記をしたが、要は感情が動いたかどうかだ。
心地よい、カッコイイなどは良い気分。
気味が悪い、恐ろしいなどは悪い気分だ。
良くも悪くもないよね、となる物は当然評価されにくい。

③目新しさがあるか
これは既存のものの刷り直しではないか、ということに言い換えられる。
明らかに何かの劣化コピーじゃん、ってものは流石に評価されない。

④何かを理解出来たか
本当に何にも理解出来ないけど良い、というのもあるにはあるが基本的には理解できないものは拒絶される。僕らだって謎の国で食べられてる茶色や赤や黒い色をしたドロドロのスープとか出されたら躊躇うだろう。それと同じだ。「これはカレーです」と言われた瞬間、あぁそれなら1口、となるだろう。それと同じだ。

⑤それを「良い」と言うことにメリットがあるか
これは見落とされがちだが、結構大事な要素だ。例えば最高の歌詞を書いて、最高の曲を作っても、タイトルがめちゃくちゃ差別的で侮蔑的で思想が偏りまくってる曲は大手を振って好きとは言えない。
でも、内容がオシャレで「これを好きと言える私もまたオシャレかもしれない」と思わせる内容なら、評価されるし批判されにくくなる。
これはアレだ、無印良品を批判すると「分かってないやつ」感が出ちゃうから文句言わない現象と同じだ。


ではこれを踏まえた上で前項のワードセンス型の歌詞作りをしていこう。

ワードセンス型の特徴は、ありふれてない言葉や意外性のある言葉だ。例えばこんな歌詞があったとする。

明日に向かって走り出す
そこにある光に手を伸ばす

何にも意外性が無いし、ありふれまくっている。
とりあえずこれをスタート地点としよう。

印象に残る言葉は何度も言っているが「ありふれてない」言葉だ。言い換えれば「使われてない or 使うのを躊躇われる」言葉である。

使われてない言葉とは「本来有り得ない言葉の並び」などが当てはまる。これは簡単だし効果的だ。
海が遠くを歩く とか、雲が軒先で砕け散った とかだ。どっちも有り得ない。

また使うのを躊躇われる言葉は単純に「口に出しにくい単語や文章」だ。
僕なら「宿題サボってゲームしたい」とか「僕よりリアルが充実してる人が丸ごといなくなって欲しい」とかそういう自分の情けなさが露呈する言葉だったり、「殺す」「ふざけんな」みたいな喧嘩腰の言葉だったり。

また使われてない言葉の別解として「歌詞っぽくない言葉」もある。
説明するのは難しいが、例をあげれば「地質」とか「そしたら」とか「そうっすね」とかだろうか。専門的、教科書的な単語や、崩れすぎた口語などは出てきにくい傾向にある。

この辺の手法を用いてさっきのありふれ日本代表みたいな歌詞を修正していこう。

日記の続きが見たくって
夕焼けを二乗してみたの

こういう風にしてみた。元の歌詞があまりにもありふれだったから、そんなに特徴は無いけれども。

まず「明日」を「日記の続き」とした。まあだいたい同じ意味なんじゃないかと思う。他の候補には「24時のベル」「お日様との再会」「夜の帳が眠ったら」などを思いついたが、なるべくシンプルで楽しそうなのを選んでみた。
このように難しすぎない言葉で言い換えた表現を用いるのはとても簡単で、しかも深み的なのが出る。テクニック的には暗喩という。

で、「そこにある光」というのは「日記の続き」という言葉を受けて「夕焼け」とした。日記に書けるような時間経過を感じる光り物が他に思いつかなかった。
そのままでは普通に夕焼けなので二乗してみた。普通の夕日よりなんか光が強そうな感じがするし、普通夕焼けは二乗しないから印象に残りやすい。
日記を書く=夏休みの学生さんかな?という発想もあったから、初等数学っぽい内容にして語り手のキャラ付けもバッチリだ。

このまま続きを書いていく。

日記の続きが見たくって
夕焼けを二乗してみたの
8月ももう終わるんだって
置時計はとても残酷だ

こんな感じで続けてみた。
最初で付けた学生っぽいキャラを発展させて「夏休み終わんの嫌すぎ」ってなる人を書こうとしている。
「夏休みはもう終わる」とか「夏はもう終わる」だとよくある感じになるなぁと思ったので、より具体的に「8月」とした。また最後を「だって」にすることで1行目の「見たくって」の音に対応させている。
聞くところによると最近は9/1から新学期になるワケじゃ無いらしいが、一旦良しとしよう。

「置時計はとても残酷だ」は夏休みが終わるの嫌だけど事実終わるしな、というところを書こうと思って、こうした。
「時間」「時の流れ」「カレンダー」はどれも普通だなと思ったので「置時計」とした。より今風にしたいなら「スケジュールアプリ」とかになるのだろうけど、文字数がここだけ増えまくるのも嫌なのでやめた。また「スマホ」では連想できる意味が広すぎると思ったので、これもやめた。

こういう風に「普通だなぁ」って部分を逐一言い換えていきながら、要所要所で意図的に有り得ない言葉の並びを入れる。
これが僕の考える才能を感じる歌詞の作り方の解答だ。

ちょっと長くなり過ぎた。テクニックの解説などは一旦置いといて、今回はここまでにしよう。


◆最後に

ここまで頑張って書いたけれど、これが全部正しいワケがないのは皆様ご理解頂けてるでしょう。
こんなのが全部正解なワケがないのです。
全部正解なら僕はプロになってる。なってないということは……ってことなんです。

この長々とした記事の中で皆様がプラスになるな、と思ったところだけ取り入れて、その他は捨てるか片隅に置いとくのが正しい使い方だと思います。

ですが、もしこの記事が役に立ったなら、役に立った部分を貴方の哲学や理論と混ぜ合わせて、また別の困ってる誰かに伝えてあげてくださいね。

楽しく音楽して生きましょう!

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