明日のために鳥を煮る
深夜で一人台所に立って鳥手羽を煮ている。家人はもう床についているので土鍋がくつくつ煮える音しかしない。ぼぅと1時間ほど煮てればいいというわけではないがスマホ片手に思索に耽りつつ、時々浮かんでくるアクを取るだけの余裕はある。
いつもの料理が時間制限と戦う短距離走ならこれはジョギングだろうか。鳥を煮ている時はアクのひとすくい油の一粒さえも見逃してなるものかと目標を立てるがほどほどでもういいやと妥協してしまうのもジョギングに似ている。
実際の所、水炊きをやるにはこの鳥の油やらが臭みの原因となるためできる限り取ったほうが良いのだ。しかしそこまでこだわるのなら生姜を入れたりネギの青いところを入れたりした方が良い。気合の入るごちそうならともかく、安かったという理由で買った鳥手羽を煮る時に使うかわからない生姜を用意するのは面倒くさいので酒をバッとふりかける以外は特にやっていない。
こういうことをしていると、料理に愛がこもっているとは具体的にはなんのことか昔読んだ本に書いてあったのを思い出す。簡単に言うと手間をかける、丁寧に下ごしらえをすることが愛をこめた料理ということだ。1時間見つめながらアクを取り続けるのは愛と呼んでもいい気もしなくもない。では生姜やネギの青い所を用意するのが面倒くさいと省略するのは愛がないのだろうか?
似たようなことは味の素や粉末だしを使う時にも思う。子供が可愛いので粉末だしを使いません…本物を知って欲しくて…手抜きって愛情不足で…。
なんてことを思いはするが、愛とは何かについて悩むほどの若さもないし人からそれが愛だよなんて言われたとしても知ったこっちゃない。大体全部美味しんぼが悪い。雁屋哲が悪い。あんな適当なおっさんの言ってることを信じるなんてもってのほかだ。
そんなことを考えているうちに鳥が上手に煮えた。お猪口にスープを一口分とって、アジシオをパラっとかけて飲むと美味い鳥スープになっている。愛がどうかはわからんが、明日の鍋はきっと美味い。
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