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京都魔界めぐり その5 帷子ノ辻・太秦・渡月橋・野宮神社・西行井戸

白峯神宮は雨でしたが徐々に止みはじめ、続いて向かったのは京福電気鉄道(通称は嵐電)北野線の北野白梅町駅。洛西の嵐山・嵯峨野方面への電車が出ています。

私が今回の旅行で一番楽しみだったのは行ったことがなかった嵐山・嵯峨野で、風光明媚なイメージしかないのです。が、平安時代、ここは右京。住む人が少ない洛西には葬送の地がありました。葬送の地は洛東(東山方面)には鳥辺野という一大葬送地があったので西限定ではありませんが。

嵯峨野の奥にある化野(あだしの)は平安時代は風葬の地で。風葬とは遺体をそのまま地面に放置して鳥獣が食べるに任せるようにした埋葬方法の一つです。肉体は徐々に朽ちて最後は骨だけ。。。

帷子ノ辻
嵐山・嵯峨野に行く前に帷子ノ辻駅で下車。現在は普通の住宅街なのでこの写真で何かわかったらすごいのですが、夫はこの写真がどうしても撮りたかったらしい。

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地名の帷子ノ辻の由来は52代嵯峨天皇(786-842)の皇后の橘嘉智子(檀林皇后)にまつわる説話から。橘嘉智子は仏教に深く帰依していた美貌の皇后でしたが、「諸行無常」を身をもって伝えようと死の間際に自分の遺体は埋葬せずに辻に棄てろと遺言、実施されたところ腐乱し鳥獣に食い散らかされて無残な姿となり、最後は白骨化していく様子を人々に示したそうです。

九相図という屋外に打ち捨てられた死体が朽ちていく経過を9段階に分けて描いた仏教絵画があります。美貌も最後はこうなる。これが現実。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E7%9B%B8%E5%9B%B3
(Wikipediaより)

この時、檀林皇后の遺体が身につけていた経帷子(死装束)が風に吹かれて舞い落ちたのがこの辻で、帷子ノ辻と呼ばれるようになったそうです。

橘嘉智子は嵯峨野に日本最初の禅院の檀林寺を創建したことから檀林皇后と呼ばれました。檀林寺についてはまた後ほど。

広隆寺
帷子ノ辻から歩いて6分のところにあります。私は知らないお寺でしたが、603年創建で秦氏の一員で聖徳太子の側近だった秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古のお寺。飛鳥時代には別の地にあり、平安京遷都前後にここに移転した説が現在有力だそうです。

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敷地内を歩いただけですが、広かったです。観光客もまばらで静かでした。

大酒神社
広隆寺の近くにある大酒神社。主祭神は秦の始皇帝。なぜ始皇帝が?

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秦氏は中国の秦の始皇帝の末裔で百済から日本に帰化した弓月君(ゆづきのきみ)が祖とされているそうです(他に諸説あり)。秦氏は葛野郡(かどのぐん 現在の京都市右京区南部・西京区の一部)を本拠として、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった人々でした。大酒神社の名も納得。元は広隆寺内にあったこの神社は明治の神仏分離により広隆寺近くの別の場所に移転しています。

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このあたりの地名の太秦は21代雄略天皇の時代に秦氏が絹を「うず高く積んだ」ことに由来しているそうです。謎めいた秦氏にはいろいろな説があります。

東映太秦映画村
近くにあります。東映時代劇の好きな方と小さいお子さんがいれば忍者体験とか仮面ライダーショーで楽しいかと。

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江戸の町のセットや京都の池田屋のセットが。池田屋の中には階段のセットがあるので映画「蒲田行進曲」の『階段落ち』を思い出しました。

映画村にいる間に台風が過ぎ去って青空が広がりました。おかげで蒸暑いです。太秦広隆寺駅から嵐電でやっと嵐山へ。

嵐山は平安時代に貴族の別荘地になって以来現代では代表的な観光地。嵯峨野まで含めた一体を嵐山と言っていますが、本来の嵐山の地名は桂川右岸が西京区嵐山で桂川左岸は右京区嵯峨。同じ嵐山駅でも阪急の嵐山駅の住所は京都市西京区嵐山東一川町。嵐電の嵐山駅の住所は京都市右京区嵯峨天龍寺。

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渡月橋
渡月橋は大堰川にかかる橋で京都市の観光ガイドによれば月が渡るさまに似ているところから鎌倉時代の90代亀山天皇(1249-1305)が渡月橋と命名したそうです。写真は夕方ですが、月のある時間も見てみたい。

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渡月橋を挟んで上流が大堰川、下流が桂川と名称が変わります。(Google上ではこのあたり一体を桂川と表記し、さらに上流を大堰川と表記)

渡月橋を見たあとは嵯峨野に向かいます。愛宕山をバックにした嵯峨野は秦氏が開発したとされ、平安遷都後は風光明媚なところとして皇族・貴族の別荘地・行楽地でもありました。


野宮神社へ向かう途中の竹林の道。風情あります。風が吹くと竹の葉がさわさわとしていい感じ。

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野宮神社 

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源氏物語の「賢木」で源氏と六条御息所の別れの場面に描かれている野宮。この黒木の鳥居も登場してます。先に気がついたのは大和和紀さんの「あさきゆめみし」でですが。

野宮神社の魔は源氏物語に登場する六条御息所。光源氏の年上の恋人である六条御息所は物語中で生霊となり源氏の正室である葵上と恋人である朝顔の君を殺め、死霊となって源氏の最愛の人である紫の上を苦しめたりと源氏に復讐してます。物語中の人物ですが、これも魔ということで。

野宮神社のHPによると野宮は天皇の代理で伊勢神宮に仕える斎王(皇女か女王)が伊勢に行く前に身を清められたところ。禊の場所ですね。野宮の場所は天皇の即位ごとに定められて、こちらは嵯峨天皇の皇女仁子内親王が最初とされているとありますが、年代によって嵯峨野の各所にあったそうです。なお、斎王制度は南北朝の戦乱で廃絶し、その後神社として存続しているそうです。現在の野宮神社は縁結びの神社です。
http://www.nonomiya.com/yurai.html

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お寺めぐりの前に『さがの楓カフェ』で休憩。
http://www.kaede-cafe.com/ 野宮神社から歩いて5分くらい

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この頃は緑満載ですが、秋には真っ赤になるみたいです。ケーキも美味しい、素敵なカフェ。

ここからはお寺めぐり。渡月橋や野宮神社とはうってかわって人が少なくなっていき静かでした。

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常寂光寺
バックには小倉山が広がっている日蓮宗の寺院。1596年頃の開創されているので今回の旅行の中では新しい部類かと。中は広そうですが、門の前で。紅葉がきれいなところだそうです。

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散策中に見つけた黄色くなりつつある葉と緑の葉とピンクの百日紅(さるすべり)。秋分の日の振替祝日はまだまだ暑かったけれど、この辺りは夏と秋が入り乱れてる感覚でした。私の住んでる辺りはこの頃は緑と百日紅だったなぁ。

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今年は日常でも百日紅をよく見かけた気がします。なんで今まであんなに華やかなピンクの色が目に入らなかったのが不思議。

西行井戸
西行法師が嵯峨野に住んでいた時に使っていた井戸の趾。西行庵はここにあったようです。

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西行法師(1118-90)とは平安時代末から鎌倉時代初期の花と月の歌人、旅と草庵の歌人。新古今和歌集には西行法師の歌が一番入集されているそうです。俗名は佐藤義清(のりきよ)。佐藤氏は藤原氏の流れの富裕な武家で、義清は鳥羽上皇の院の御所の北面で院中を警護していた北面の武士で、23歳の時に突然出家(理由は不明)。出家後は嵯峨や鞍馬に籠り、高野山を本拠とする聖(ひじり)生活をして、奥州から九州まで放浪していました。

西行法師は崇徳上皇と親しかったようで保元の乱に敗れ仁和寺に籠もった上皇の元に馳せ参じ、配流いされた讃岐に歌を送ったり、崇徳上皇の白峰陵参拝と弘法大師の遺跡巡礼のために讃岐に行ったりということもしていたそうです。同時代なので不思議ではないのですが、ここで崇徳上皇がでてくるのは思わなかった。

歌碑 字が消えて読めなくなっていますが、原文は
「牡鹿なく小倉の山のすそ近みただ独りすむわが心かな」

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「牝鹿が鳴く小倉の山裾近くにただ独り住んでいると、世の中の煩わしいことにとらわれることもなく、我が心は澄んでいくものだ」。

二尊院
二尊院のHPによれば嵯峨天皇の勅願により最澄の弟子だった円仁(えんにん)が建立(834-848)したことがはじまり。応仁の乱で全焼しましたが、再建、明治維新までは天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の兼学の道場でしたが、明治以降は天台宗に。写真の総門は1613年に伏見城にあった薬医門を移築、寄進されたものだそうです。中はかなり広く、紅葉も見事なようですが、紅葉はまだの季節だったので門の前を通っただけで。

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お寺めぐりは続く。。


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