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京都魔界めぐり その6 祇王寺・檀林寺・化野念仏寺

祇王寺
http://www.giouji.or.jp/about
平家物語・巻第一の「祇王」に登場する白拍子の祇王が入寺した尼寺。

日本大百科全書によると、白拍子は平安時代におこり、鎌倉時代にかけて行われていた歌舞、及びその歌舞を業とする舞女のこと。男装して踊っていたので男舞とも言われました。

寄り道ですが、白拍子と聞いて思い出すのは静御前。源義経の愛妾だった静御前は義経の異母兄で不仲だった源頼朝の前で舞うように命じられ、義経を想う舞を踊りました。

祇王寺は浄土宗の往生院境内にありましたが往生院は荒廃、尼寺として残ったものの明治期に一時廃寺となりました。その後真言宗大覚寺派の寺院として復興しました。

中は竹林と楓に囲まれた草庵

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上を見上げると楓と竹も見事ですが、足元の苔や草花が派手さはなくとも「いとをかし」(使ってみたかった)。真っ赤になる前の楓の緑もいいです。

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こじんまりとした静かなお庭。

平家物語・巻ー「祇王」によれば祇王は平清盛の寵愛を受けていた白拍子でした。ある時、清盛の前に仏御前という白拍子が現れ、舞を見て欲しいと清盛に所望。清盛は断りますが、祇王の取りなしにより、舞わせたところ清盛は仏御前に目を奪われ、心変わりして祇王を屋敷から追い出します。祇王は母と妹と共に世を儚んで自殺しようしますが、思いとどまり嵯峨の寺で3人で出家します。

ところが、その後、仏御前は祇王の不幸を思うにつれていずれ自分も同じ目にあうと無常を感じ、清盛の元を出て祇王たちの元へやってきます。こうして女4人で仏に仕える生活に入り、往生の本懐を遂げ、この寺は後に祇王寺と呼ばれるようになりました。(平家物語内では祇王寺の名称は出てこない)

平家の栄枯盛衰を描く平家物語の有名な冒頭。

「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

「祇王」の現代語訳を読んでみましたが、清盛の寵愛を受けるという絶頂期にあって清盛から酷い扱いを受ける祇王、生きるには仏の道しかなかった。諸行無常は平家だけではないのです。


宝篋印塔(ほうきょういんとう)
本来は宝篋印陀羅尼の経文を納めていたそうですが、後年は供養塔・墓碑として建てられたものだそうです。

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パンフレットによれば鎌倉時代のもので左が祇王、妹の祇女、母の刀自の墓で右が平清盛の供養塔。仏御前のはないのですが、清盛のはあるのか。彼女たちは滅亡でなく往生できたのはなによりです。

草庵には女性達4人の仏像があったのですが、この時、私はお庭だけで満足して中は見にいかなかったのです。。惜しまれます。


檀林寺
檀林寺祇王寺のすぐ近くにあります。

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52代嵯峨天皇(786-842)の皇后の橘嘉智子が815年に建立した日本最初の禅院。橘嘉智子は檀林寺から諡(おくりな)・檀林皇后と呼ばれました。檀林寺は平安初期の仏教文化の一中心地でしたが、皇后の没後平安中期には廃絶。1964年に現在地に再建されたそうですが、当時の檀林寺とは現在関係がないそうです。

嘉智子さんゆかりの宝物館に誘導されますが、こちらもお庭が良かった。

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瓢箪池
森青蛙には会えず。

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藤袴にはアサギマダラという蝶がやってくるそうですが、9月末頃に来るそうでこちらも会えず。アサギマダラは遠距離を飛ぶ蝶なんですね。

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小さな楓。ここも楓が多いので晩秋は紅葉が見事でしょうね。

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ところで、帷子ノ辻のゆかりとなった橘嘉智子について。実家の橘氏は飛鳥時代末に43代元明天皇から42代文武天皇の乳母だった県犬養三千代(あがたいぬかいみちよ)に「橘宿禰」の氏姓を授けたことが始まり。三千代の息子、葛木王は橘諸兄(たちばなのもろえ)に改名し、その子孫は橘氏を称します。橘氏は源氏・平氏・藤原氏と共に「源平藤橘」(げんぺいとうきつ)と総称されています。朝廷から与えられた姓=賜姓(しせい)ですね。

で、橘嘉智子ですが、即位前の嵯峨天皇に入内、815年に立后し皇后に。橘氏としては最初で最後の皇后で、実家の橘氏の子弟のための学校を設立したりと肩入れし、奈良時代に落ち込んだ橘氏は嘉智子のおかげで一旦盛り返します。

833年、嵯峨天皇は異母弟の53代淳和(じゅんな)天皇へ譲位、皇太子は嵯峨上皇と嘉智子との間の正良親王。淳和天皇が譲位した後、正良親王は54代仁明(にんみょう)天皇として即位。皇太子には嵯峨上皇と嘉智子の娘で淳和天皇の皇后となった正子内親王(仁明天皇の双子の兄妹)の息子の恒貞(つねさだ)親王に。天皇位の叔父・甥間の継承は天皇に実子がいてうまくいくのか?

この頃、藤原北家の藤原良房が台頭。良房の妹が仁明天皇に入内、道康親王が生まれ、こうなると次の天皇は誰がいいかというと。。。恒貞親王は母親が皇族なため有力臣下のバックアップがなく皇太子とはいうもののその地位は不安定。おまけに父親の淳和上皇は嵯峨上皇より先に死去。長生きは大事です。

842年7月、危機感を持った恒貞親王の周囲が恒貞親王を東国へ移す計画をたて、それが嘉智子太皇太后へ伝わったことから発覚。上皇の死去後、謀反の嫌疑で橘氏や大伴氏、藤原氏内の良房のライバルなどが処罰され、恒貞親王は廃太子されました。(承和の変)

嘉智子太皇太后の決断は、仁明天皇と道康親王のラインを残し、正子皇太后と恒貞親王の切り捨てでした。息子を廃された正子皇太后は実母の嘉智子太皇太后を恨んだそうです。結局、仁明天皇の皇太子には天皇の実子で藤原良房の甥の道康親王(55代文徳天皇)に。承和の変は嘉智子の意を汲んだ藤原良房の陰謀と言われ、藤原北家の他氏排斥の先駆けとなりました。

850年、仁明天皇の死からほどなく嘉智子は死を迎えました。帷子ノ辻の話とはずいぶんイメージが異なります。

皮肉なことに嘉智子は藤原良房と組むことで橘氏の力をダウンさせてしまったわけで。実家の橘氏は嘉智子の死後約100年後には、藤原北家とは対照的に中下流貴族となっていきました。

平安京遷都からの50年は承和の変以外にもゴタゴタがあり興味深いですが、魔界から離れすぎるのでこのあたりでやめておきます。

化野念仏寺

檀林寺から10分ほど歩くと化野(あだしの)念仏寺があります。当時の化野は風葬の地つまり遺体が野晒しになっていたところでした。それを憐れんだ真言宗の開祖、空海(弘法大師)が無縁仏の供養のため弘仁年間(810-824)に五智山如来寺(ごちさんにょらいじ)を開いたのがはじまり。鎌倉時代初期には浄土宗の開祖、法然が常念仏道場を開いて念仏寺と改称して浄土宗となり、現在の化野念仏寺になったそうです。

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このあたりは人家も少ないです。

中に入ると石仏がぎっしりと並んでいました。その数8千体だそうです。 石仏はあだしのの山野に散乱していたのを明治中期に地元の人々の協力で集めて、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人になぞらえて配列されているそうです。賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられました。写真は遠慮したのでHPの写真で。
http://www.nenbutsuji.jp/index.html

パンフレットより

「あだし」とははかない、むなしいとの意で、又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往生する願いなどを意図している。
この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。

このお寺の中にも竹の小径があります。奥に六面体地蔵が祀られています。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、天道の6つの世界(仏教の「六道」)で救う者を表しているそうです。お参りの方法はお地蔵様の足元にある柄杓を使って、時計回りで天童から人道へお水をかけていき、その際に「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソウカ」と言ってお参りすると罪障を洗い流すのだそうです。夫はこの通りお参りしてましたが、仏教に関心のない私はそれを横目で見つつ、竹が風でさわさわ揺れているのを見て動画を撮ってました。


化野念仏寺をでて、バスで嵐山駅に戻ろうとするもバスは1時間に1本しかなくて。。。たくさん歩いた後で疲れていましたが、バスが来るまで歩くことに。幸い途中で阪急嵐山駅行きのバスが来たので渡月橋で降車。夕日の中の渡月橋を見られたのは良かった。それから嵐電嵐山駅に。

ちなみに全部歩くと30分なので大したことないのですが、疲れていたせいかもっと遠く感じました。嵐山・嵯峨野はまだまだ見るところがあるのでまた行きたいです。

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一旦ホテルに戻って休憩し、最後の夜は京都タワーの展望室から京都市内を一望。暗いせいで自分が行ったところがいまいち分からず。。





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