聖徒の皆さん、なぜ牧師・宣教師を先生と呼び続けるのですか?~先生呼ばれの罪~
※トップ画像はTVドラマ『先生を消す方程式。』より。当文の内容はドラマとは一切関係ありません。
聖書箇所
日本のプロテスタント・キリスト教界の兄弟姉妹へ
麗しい主イエス・キリストの御名によってご挨拶申し上げます。
これは、日本独自の霊的な課題・問題だと思い、日本のキリスト教界の閉塞感の現状打破の為にここに問題提起いたします。
日本のプロテスタントのキリスト教界の中にある不自然な上下関係・牧師と会衆の共依存関係は、マタイ23:8によれば、実はイエス様を中心とした神の国の文化には存在しないものです。つまり地上のこの世の日本の文化であって、天にある御国の文化、天国の文化ではないのです。
この問題が改善・解決される時、日本人特有の悪しき霊性(事勿れ主義・無責任主義・責任あるリーダーシップの欠除・悪しき権威主義・村八分・同調圧力等)が打破されて行くと考えます。
今、日本中・世界中でコロナにより様々な状況のハードリセットが起こっている今が、このことを改めて考える絶好のチャンスだと思います。
今まで当然の文化・習慣だと思い、疑問に思ったこともない方も大勢いらっしゃるかと思いますが、下記リンク先記事(【疑問】なぜ牧師は「先生」と呼ばれるのか?! - 週刊イエス)もお読みになり、祈りの中でご一考くだされば幸甚です。
【疑問】なぜ牧師は「先生」と呼ばれるのか?! - 週刊イエス https://yeshua.hatenablog.com/entry/2018/03/07/211813
ちなみに、このことをシステム的に実践しているのがブレザレン教団です。ブレザレン(兄弟たちの意)では牧師等の教職者を置かず、信徒たちの中から責任者(牧会者)を立てて教会運営を行なっています。ブレザレン教団の中では、責任者(牧会者)を「先生」と呼ぶ文化はありません。ブレザレン教団の関係者に確認したところ、責任者(牧会者)も「さん付け」または「〇〇兄弟」「〇〇姉妹」で呼び合っているとのことです。有名なところでは、YouTubeで人気のある高原剛一郎氏の東住吉キリスト集会(教団名:キリスト集会)があります。
東住吉キリスト集会 牧会者紹介
https://bible-hca.com/shepherd/
キリスト集会とは
https://bible-hca.com/about/brethren/
この投稿はクリスチャンの中にいる宗教家をあぶり出すリトマス試験紙となっています。この投稿を読んでカチンとくる方は、主イエスの憎まれた偽善の律法学者・パリサイ人、宗教家になっている、宗教の霊に同意をし強い影響を受けているということです。イエス様に向かって熱心に悔い改め、聖霊様に内面を深く探っていただくことを強くお勧めします。
先生とは呼び方の一つである
日本では、教師を筆頭に、医師、政治家、代議士、弁護士、税理士、塾の講師、教授、教諭、保育士、整体師、占い師、棋士、漫画家、作家、芸術家、用心棒、花道の家元、茶道の講師、着付の講師、生花の講師、日本舞踊の講師、書道家等、様々な職業の人々が関係者から「先生」と呼ばれます。特殊な例では、水商売や暴力団関係者が警察官や検察官を「先生」と呼ぶことがあります。
しかし、上記の職業の人々が、公の書類で職業欄に何と記入するかと言うと、それぞれの職業名を書き、「先生」とは絶対に書かないわけです。すなわち、「先生」とは職業ではなく呼び方の一つなのです。
現状と意見
日本のプロテスタント・キリスト教界では、すべての地域教会でではありませんが、非常に多くの地域教会で、牧師や教職者のことを「先生」と呼ぶ習慣・文化があります。
牧師の子供で実の父親であっても、教会では「〇〇先生」と呼ばせている教会すらあります。
しかし、マタイ23章8節で、主イエスご自身が群衆と弟子たち、すなわち主イエスを信じる者たち(聖徒たち)に向かって明確に述べておられます。「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。」と。
生ける御言葉なる主が、明確に禁止しておられるのに、なぜ日本のプロテスタント教界の牧師や宣教師は先生と呼ばれ続けることを許して偽善の律法学者たちと同じ罪を犯し続けるのでしょうか。
「先生呼ばれ」は支配と依存関係の温床です。人間関係に上下を作るのは御国の文化ではありません。
「原語はラビで違う言葉だから先生と呼ばれても良いんだ」等のルカ10:29の様な詭弁は聞き飽きました。
文脈上、日本語の「先生」=当時の「ラビ(ユダヤ教の教師)」で間違いなく、イエスが言わんとした意味上の違いはありません。
主の御言葉を侮ってはいけません。
さん付け/〇〇牧師で充分敬意は表せます。
参考情報
とある牧会者の告白と提言(2022/4/12火 追記)
わたしをセンセと呼ばないで
https://note.com/ichurch_me/n/nd3f3c978bb42
牧師を「先生」と呼ぶの、呼ばれるの、もうやめませんか? イエスの教えに反してますよ?【マタイ23章】
https://youtu.be/jiZZYI1RDGI?si=KoVZDQ-J2Cbh60tL
牧師・宣教師※が先生と呼ばれてはならない理由
※以下、牧師・宣教師と記載する時は、教役者・教職者・牧師・宣教師・伝道師・教師・補教師・巡回伝道師・CS教師・信徒伝道師・国内宣教師・教会スタッフ・ミニストリースタッフ・使徒・預言者・ミニスター・長老・執事・教会役員・神学生等を含みます。
①最高権威である主イエスが禁止された
②クリスチャン同士の中で先生と呼ばれて良いのはイエス様だけである
主イエスご自身が明確に言っています。主イエスを信じる聖徒たち・信徒たちの間で、「先生」と呼ばれて良いのはイエス・キリストだけであると。他の聖徒たち・信徒たちは、みな主にあって兄弟姉妹であり、上も下もないと。もしあなたが主イエスを信じて愛しているのなら、主イエスの言葉に従ってみてはいかがでしょうか。
③闇落ちの素である高ぶり・虚栄心の息吹を招いてしまう
高ぶりは、聖い栄光ある御使いたちですら、穢れた悍ましい悪魔・悪霊どもにまで堕落してしまった恐ろしい罪です。
日本のプロテスタント教界には、先生と呼ばれないと「先生と呼びなさい!」と怒る日本人牧師や、「皆が(牧師同士で)先生と呼んでいるのにあなただけ(同僚の牧師を)さん付けで呼ぶのはおかしい!」「皆(=教団の牧師たち)が先生と呼ばれているのにあなた(=教団の一牧師)だけ、(信徒に)さん付けで呼ばせるのはおかしい!」と同僚の牧師から言われたという証言が続出しています。いやいやいや、イエス様と比べて牧師・宣教師はそんなに偉いのでしょうか?クリスチャンでありながら、主にある兄弟たちにイエス様だけが呼ばれて良い敬称で自分たちを呼ばせる、お互いを呼び合っているとはどれほど思い上がっているのでしょうか?いったい何様のつもりなのでしょうか?この類の話は何十年にも渡って牧師からも信徒からもたくさんの証言があります。
④御心ではない上下関係が生まれてしまう
いわゆる天国、御国すなわち神の国には、人間関係において、上下関係はありません。役割ではなく人間関係におけるヒエラルキーは、神の国の文化ではなく、この世の文化です。
先生と呼んだ瞬間に、上下の関係が生まれます。お世話する方・される方という依存関係が生まれます。支配・共依存関係になって行くのです。そして、イエス様とその人の間に牧師が割って入ることになってしまいます。イエス様は直接その人と交わりたいのです。その一対一の交わりを妨げることは主の御心ではありません。
⑤イエスの憎まれた偽善の宗教家になってしまう
「先生」と呼ばれたがるのは偽善の律法学者またパリサイ人たち、すなわち宗教家たちであると、主イエスははっきり言っています。何のために「先生」と呼ばれるのか、呼ばれたがるのか、その目的は明白です。自分に栄光を返すためです。人から賞賛を受けて自分が気持ちよくなるためです。自分を権威付けして信徒を支配・管理しやすくするためです。自分の承認欲求を満たすためです。他人のためではありません。ましてや自分に任された羊たちの利益のためではありません。
また、牧師・宣教師として「先生」と呼ばれること・呼ぶことには同意していないが、周りと波風を立てないためにあえてそれを言わずに、周りに合わせて牧師・宣教師を「先生」と呼んでいる人々がいます。知恵のつもりなのでしょうが、人を恐れて言わないのは知恵ではありません。主イエスの最も憎まれた姑息な偽善です。今すぐやめることをお勧めします。
⑥偉大な御使いですら敬拝を受け取らなかった
使徒ヨハネに、黙示録の記述のもととなる天の諸々の幻を見せた偉大な御使いですら、ヨハネからの敬拝(=うやまい、おがむこと)を受けようとはしませんでした。御使いがあまりにも偉大で栄光に満ちていたので、人間の自然な心情としてヨハネは思わずその御使いを礼拝しようとしました。しかし、御使いはヨハネを止め、自分を礼拝させなかったのです。
牧師も同じではないでしょうか。主イエスにあって同じ立場の兄弟姉妹なのですから、思わず信徒や教会員が自分のことを尊敬のあまり先生と呼ぼうとしたのなら、止めさせるべきではないでしょうか。
⑦信仰の兄弟姉妹から「先生」と呼ばれることは罪である
この天地万物を創られた最高権威者である主イエス・キリストが明確に禁止しておられます。信仰の兄弟姉妹から「先生」と呼ばれてはならないと。すなわち、信仰の兄弟姉妹から「先生」と呼ばれることは的外れの罪なのです。
また信仰にある兄弟姉妹が、牧師・宣教師を「先生」と呼ぶことは、相手に罪を犯させていることになります。今日からできます。今すぐ、牧師・宣教師を「先生」と呼ぶことをやめましょう。
「先生」と呼ばれることの弊害は、ノンクリスチャンの方が分かっていたりします。日本にはこんな諺があります。
いますね。先生と呼ばれて気分を良くしている牧師が。
また「先生」と呼ばれないと一人前になった気がしない、尊敬されている気がしない、という意見を聞いたことがあります。イエス様は、人からの栄誉や尊敬を求める者を重用されません。自分のことを「先生」と呼ばれたがるクリスチャン・呼ばせるクリスチャンは、信仰の兄弟姉妹から「〇〇先生」と呼ばれる度に、天での報いを減らされていることでしょう。
他の人々はどうなのか?ケーススタディ
①初代教会と初代教父たちは全員守った
初代教会および12弟子たちは全員、主イエスの言葉を守り、「先生(ラビ)」と呼ばれる者は出ませんでした。新約聖書にも、主イエスを信じた者で、ラビと呼ばれた者は出てきません。(元々ラビでイエスを信じた者たちは例外ですが。)時代が下って初代教父たちの時代もそうです。その伝統はプロテスタントとなった今も綿々と受け継がれています。
②欧米圏は今も守り続けている(文化にまでなっている)
英語圏では教師はMr.〇〇、Ms.〇〇、Mrs.〇〇と生徒から呼ばれます。敬意を込めた呼び方で、〇〇さんという意味です。教会でも牧師はBrother〇〇、Sister〇〇、もしくはPastor〇〇と敬意を込めて呼び、かつ対等な関係です。教師や牧師をTeacher〇〇とは決して呼びません。先生と呼ぶ文化がないのです。これは主イエスの教えが延々と守られ続け、文化にまで浸透した結果です。
余談ですが、ブラジル等ポルトガル語圏では女性牧師をPastora◯◯と呼びます。牧師(パスター)の女性形です。
③世界中で日本人クリスチャンだけが守っていない
この主イエスの御言葉を守っていないのは実は日本人クリスチャンだけです。同じ儒教文化圏である韓国・中国での牧師の呼び方を見てみましょう。
韓国では〇〇牧師様(ここでの様は氏に当たる様な一般的な敬称)と呼び、決して牧師を〇〇先生様とは呼びません。
中国では、教師や先生は老師(老师)と呼ばれ、中国語での◯◯「先生」は日本語の〇〇「氏」と同じただの敬称の意味で、教師(先生)という意味はありません。
日本語聖書を翻訳する際、先に完成していた中国語聖書を参考にしたという話を聞いたことがありますが、日本人が牧師を先生と呼んでいるのは、もしかしてここで何か混乱が入ったか、勘違いをしたのでしょうか?
④ブレザレン教団の実践例
そんな日本でも、牧師を「先生」と呼ばずにやっている教団があります。ブレザレン教団の群れです。YouTubeで人気のある高原剛一郎氏の東住吉キリスト集会(教団名:キリスト集会)ホームページより引用します。
また、神戸にある超教派ブレザレン 神戸国際キリスト教会(http://kicc.sub.jp/)のホームページから引用します。
⑤日本のキリストの体での他の実践例(2022/4/12火 追記)
1)これは複数の関係者から証言を得ましたが、チャック・スミス牧師のカルバリーチャペル系列の教会では、教職者のことを「さん」付けで、牧師も信徒も呼びあっているそうです。
2)また、クリスチャン新聞(いのちのことば社)では、どんな牧師や宣教師も「さん」付けで呼んでいるそうです。教団教派で教職者の呼称があまりにも違うので「さん」付けで統一しているらしいとのことです。(これは確認した訳ではありません)
3)あと、未確認ですが、ウォッチマン・ニーの家の教会の群れも、牧会者を「さん」付けで呼んでいるらしいです。(ご存知の方がいらっしゃいましたら情報提供して下さると幸甚です)
4)日本伝道会議での取り組み。2023年9月19日(火)から22日(金)まで岐阜市の長良川国際会議場で行われた「第7回日本伝道会議(JCE7)」では、互いを「先生」と呼ばず「さん」づけで呼ぶことが壇上から呼びかけられたそうです。
https://1co1312.wordpress.com/2023/09/25/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%bc%9d%e9%81%93%e4%bc%9a%e8%ad%b0%e3%81%ab%e5%8f%82%e5%8a%a0%e3%81%97%e3%81%a6/
5)ローザンヌ運動の流れにある「日本YLG2024」での取り組み。2024年3月11日(月)~14日(木)埼玉・国立女性教育会館(ヌエック)で開催された日本Younger Leaders Gathering(若手リーダー大会)2024では、初日の集会で「牧師を『先生』と呼ばずに『さん』で統一しましょう」という提案がなされたそうです。
https://yeshua.hatenablog.com/entry/2024/03/15/222130?_gl=1*thw3z9*_gcl_au*MTE4MjcyNzU1Mi4xNzEwNTA1Mzc3&fbclid=IwAR2cMeaPT0qjSXxBl-e5osNKyUYZJSKgSg-MkSWlp0grm53mPCM41FJmWs4
⑥ノンクリスチャンの方々の意見や例(2024/3/16土 追記)
「先生」とは呼ばないで
https://note.com/hashikei55/n/na8a5cd8d5a03
そんなに「先生・先生」と呼ばれたいの?議員さん!
https://note.com/meiji227/n/nf24b30d97e5f
『先生』と言われると、、
https://note.com/note702/n/n546e42a44c64
では牧師をどう呼ぶのがいいのか
上に引用した超教派ブレザレン教会のホームページでも少し言及されていましたが、「さん」付けが一番良いと思います。もしくは「〇〇牧師」等、役職名で呼ぶのが良いのではないでしょうか。「〇〇兄弟」「〇〇姉妹」というのもありますが、教会用語で宗教臭さを感じさせ、ちょっと一般的にはなじみにくいと思います。
私が見てきた日本にある複数の世界的に有名なグローバル外資系企業(各々従業員何千~何万人規模)での例ですが、CEO、社長、専務、役員ですら、社内では上司部下関係なく、メールでも口頭でも全体社内会議でも「さん」付けで呼び合います。またそれが普通の文化となっています。
また、クリスチャン政治記者の方から以下のような証言もあります。
日本の多くの教会で、牧師を○○さんと自然に呼び合える文化が当たり前になれば、それは素晴らしい人間関係があることの証明であり、世の人々にとっても宗教臭さや偽善を感じさせない、魅力的な教会になると思います。
反対意見
反対意見1:原語はラビだから先生と呼んで良いんだ
原語のギリシャ語では「先生」と訳されている該当箇所はユダヤ教の「ラビ」と記されています。こう反論する人々の理屈は、日本の「先生」とイスラエルのユダヤ教の「ラビ」は違うから○○先生と呼んでも良いんだという理屈です。しかし、だから何でしょう。日本で「先生」と呼ばれる立場の人々は、力を持っている人、上に立っている人、権威者という意味ではユダヤ教のラビとほぼ一緒です。文脈に即して「ラビ」を「先生」と訳したのは名訳だと思います。原語は「ラビ」だから「先生」とは意味が違う。だから「先生」と呼んでも良いんだという論理は詭弁です。この屁理屈は、CGNTVにも出るような結構有名な複数の牧師がFacebookで堂々と主張していて、「ブルータスお前もか」という感じで非常にがっかりした覚えがあります。
反対意見2:肉親の父を父と呼んでいるから先生と呼んで良いんだ
これはとんでもない詭弁です。この主張は、一つの罪を犯しているから他の罪も犯していいんだという論理です。罪を犯せば犯すほど、罪の許可証が与えられる、そんなわけありませんね。
ちなみに、実の父親や育ての父親、義理の父を「父」と呼ぶのは何の問題もありません。
ここでイエス様が仰っているのは、「私たちの」父と呼んではいけないということです。
例を挙げるなら、北朝鮮(北韓国)の金親子(金日成主席、金正日総書記、金正恩総書記)のように、複数の人間に自分たちを「父」と呼ばせている例です。彼ら親子は3代に渡って、北朝鮮の国民全員に自分たちを父と呼ばせています。
そういう意味では、カトリックの法王や神父もアウトですね。カトリック信徒に「父(ファーザー)」と呼ばせていますから。(ちなみに、カトリック、正教会では教職者を「神父様」「司祭様」と呼ぶことはあっても「先生」と呼ぶ文化はありません。)
反対意見3:「牧【師】」と呼んでいるのだから先生と呼んで良いんだ
これも先ほどの反論と同じ、「ある罪を犯しているから他の罪を犯しても良いんだ」理論で、破綻した、倫理にもとるトンデモ理論です。
ちなみに、「師」と訳されている単語は、英語ではMasters(マスターの複数形)、ギリシャ語では「カセギテイス」といって、師匠・マスター・教師という意味です。全聖書中、上記に引用したマタイ23章8節と10節のたった3つの単語でしか使われていません。口語訳・新共同訳では「先生」「教師」、新改訳では「教師」「師」と訳されています。つまり、この言葉は「先生」とも「教師」とも「師」とも訳せる言葉で、この反論は新改訳聖書を使っている人だけが言ってくる意味のない屁理屈だと思われます。
しかし、本来、牧師、伝道師等に使われている日本語の「師」には「教える人」「先生」「宗教上の先生」という意味が含まれますから、「牧師」「伝道師」(可能なら「教師」も)という言葉自体を原語の意味通りの「牧者」「伝道者」「教育者?教者?」というような単語に変える必要があると考えます。悩ましいのは「牧師」という単語は、世に認知されて辞書にも載っている正式な日本語になっているということです。聖霊様に満たされていて、イエス様を熱心に愛する健全な信仰と深い正確な聖書知識を持つクリスチャンの日本語学者に新しい用語を考案して欲しいところです。
参考情報として、牧師ではなく「牧仕」や「牧使」という名称を正式に使用しているミニスターもいらっしゃることを申し述べておきます。
参考情報
とある牧会者の告白と提言(2022/4/12火 追記)
反対意見4:敬称についての戒めではないから先生と呼んで良いんだ
反対意見4の論旨は、こうです。もしマタイの23章の戒めが「敬称」に関する戒めならば、弟子たちに向かって「あなたがたは他の人々に自分のことを先生と呼ばせてはならない(そのように要求してはならない)」と述べるか、群衆に向かって「あなたがたは、私の弟子たちを先生と呼んではならない」と述べるのでないと法規範として不完全である、というのがその主張です。「殺してはならない」ならわかりるが、「殺されてはならない」というのは、法規範としておかしい、だから「先生」と呼んで良いし、呼ばれても良いのだ、というのがこの意見の主張です。
屁理屈ここに極まれりという感じですね。結論はもちろん、呼ばれてはならないという敬称についての戒めであり、先生と呼ばれてはダメです。
イエス様が①「呼んではならない」でも②「呼ばせてはならない」でもなく、わざわざ③「呼ばれてはならない」と言った理由を説明します。
①「呼んではならない」は聖徒全員(信徒・牧者)への命令になりますね。これだとイエス様のことも「先生(ラビ)」と呼べなくなります。イエス様は唯一「先生」と呼ばれるにふさわしいお方です。ですから、この命令はダメですよね。(余談:当時はイエス様の群れはイエスをラビと考えるユダヤ教の一宗派という扱いでした。)
②「呼ばせてはならない」では聖徒全員(信徒・牧者)への命令で、聖徒同士の「先生呼ばれ」の禁止になります。一見よさそうですが、この命令を守る責任は呼ばせる側になりますね。呼ばせなければ、呼ばれても、自由に呼んでも良いということになってしまいます。あまり意味がないですね。
③「呼ばれてはならない」は呼ばれる側への命令となります。「先生」と呼ばれないためには、呼ばれない環境・状態・認識となっている必要があります。したがって、そういう状況・状態を作れという指示だと考えられます。呼ばれないようにしろ、そういう状況・状態・文化・環境・人々の認識を作れ、という意味だと私は取ります。この指示だと自然に「呼ばせて」も「呼んで」もいない状況が整うと私は考えます。この命令を守る責任は呼ばれる側になりますね。
ここで2箇所の聖句を引用します。
上記の聖句より確認ですが、「より権威を与えられた者に、より責任がある。」これが聖書の原則です。
アダムが善悪を知る知識の実を取って食べてしまった時、父なる神様は、①アダム → ②エバ → ③ヘビ の順に話をされました。これは与えられている権威の序列です(御言葉を【直接】聞かされていたのはアダムのみ)。一番悪いのはもちろんヘビで、アクションを起こした順番で言うと (1)ヘビ → (2)エバ → (3)アダム ですが、権威と責任の一番重いアダムから説明を求められたのです。(余談:ヘビには弁解の機会は一切与えられず問答無用でした)
この原則を理解すると、なぜイエス様が③「呼ばれてはならない」と言われたのかが理解出来ると思います。
責任は呼ぶ信徒側ではなく、呼ばれる牧者側に比重があるということです。また、信徒には牧師を「先生」と呼ぶ自由(ただし責任の伴う自由意志)がありますし、牧師が信徒を支配してはいけませんから、強制禁止の命令はされなかったのだと考えます。
これは間違いなく敬称についての戒めです。
私たちは先生と呼ばれないように、敬われすぎないように、へりくだり続け、フラットな関係であり続けるように、努力しなければならないのだと考えます。
反対意見5:使徒16:30でパウロも先生と呼ばれているから先生と呼んで良いんだ
使徒16:30にて使徒パウロはローマ兵から「先生」と呼ばれています。しかしそれには何も反応しなかったから、「先生」と呼ばれても良いんじゃないという理屈です。
結論から申し上げますと、日本語の言語としての限界と、訳した方々の神学(先生呼ばれOK神学)のせいで誤解を招く間違った訳され方をしているというのが私の意見です。訳者の日本文化が聖書翻訳に侵食してしまった悪例だと思います。ですので、違う意味で、パウロたちはイエス様の御言葉に違反していない、という結論です。以下説明します。
使徒16:30は、日本語訳はほぼすべての訳(口語、新改第3版、新改2017、新共同、リビング、現代訳)で「先生がた」と訳されています。文語訳のみが『之を連れ出して言ふ『君たちよ、われ救はれん爲に何をなすべきか』と「君たちよ」と訳出されています。(名訳だ!)
英語では、多くの訳(KJV、NKJV、NIV、NASB、ESV、AMP、MSG、NLT等)で「teacher 先生、教師」や「rabbi ラビ」ではなく「Sirs(サー:敬称としての「卿:けい/きょう」の複数形)」と訳されていました。
で、ギリシャ語を見てみました。
ギリシャ語はなんと、:κύριος:kyrios:koo'-ree-os:発音コリアス:日本語ではキュリオス、すなわち主と訳されている言葉で、新約聖書での訳され方の内訳は、
Lord 太字の主 (667回!)、lord 小文字の主(54回)、master マスター・ご主人様(11回)、sir 小文字のサー(6回)、Sir 大文字のサー(6回)、misc その他または省略にて訳出なし(4回)です。
ということで、「先生」どころではなく、彼らは「主(神)よ、私たちは救われるために何をしたら良いですか?」とパウロたちに聞いているわけです。絶対に開くはずのない牢獄中の牢屋がひとりでに開くという奇跡を目の当たりにしてしまい、兵士たちは畏れに囚われたあまり、パウロたちを神か御使いかと畏れ敬うあまりに「主(神)よ!」と呼んでしまっている訳です。色々な翻訳方法(超訳、意訳、原文通り等)があることは知っていますが、私は聖書翻訳学者ではありませんので、ギリシャ語の意味の揺らぎをどの様に訳すべきかまでの知識はありません。なので、ここをどう訳すのが最善かまでは述べられません。(おそらく素直に「主よ!」で良かったのではと、素人考えでは思いますが、日英あわせ20種類以上の訳で一切「主」とは訳出していないので違うのかもしれませんね。)
ですが、イエス様は「ラビ(先生)」と呼ばれてはならないと仰ったので(主と呼ばれているので別の問題が発生しますが)ここの言葉はイエス様が仰った「先生と呼ばれてはならない」という原則には該当しません。
結論としては、兵士たちは原語では「先生」以外の敬称(ミスター、〜氏、名のある方、〜様、〜卿など)でパウロたちを呼んだから違う、というのが私の意見です。ですので、違う意味で、パウロたちはイエス様の御言葉に違反していない、という結論です。
補足:兵士たちから最上級の敬称で呼ばれたパウロたちは、敬われ過ぎているとすぐに気づいたはずです。その切り返しとして、すぐに救いに導き、自分たちに栄光が帰るのを阻止したと思われます。ですから、無視したのではなく、栄光をすぐ主に返すことで敬称呼ばわれの問題に対処したのだと考えます。しかも「そんな風に私たちを呼ばないで下さい」ではなく、福音を伝えてイエス様に兵士たちの意識を向けさせたのは上手い切り返し方だと思います。これより前の出来事の使徒14:12-18ではパウロたちは直接否定して「ゼウス呼ばれ」を阻止しています。
反対意見6:師弟関係を否定していないから先生と呼んで良いんだ
マタイ23章8節や10節において、「先生」や「師」と呼ばれてはいけない理由について、「あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたは皆兄弟だからです」「あなたがたの師はただ一人、キリストだけです」と述べておられ、そして、この部分だけを取り出してみると、イエス様は、イエス様以外との師弟関係の存在を認めないと言っておられるようにも思われる。しかし、イエス様は「あなたがたは出て行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(師弟関係をつくりなさい)と命じておられると(マタイ28-19)。兄弟関係(横の平行関係)と師弟関係(縦の上下関係)は両立する、だから(上下関係となる)先生と呼んでも問題ないとする意見です。屁理屈も混みで、イエス様の意図をまったく誤解している勘違い意見です。
マタイ28:19の大宣教命令でイエス様が言われている弟子とは誰の弟子にせよと言っているのでしょうか。私の弟子?牧師の弟子?長老の弟子?教会リーダーの弟子?いいえ。「私たち誰かの」弟子ではなく「イエス様の」弟子としなさいと言っているのです。
当記事で何度も述べられていますが、聖徒同士は教職者も信徒もキリストの身体として対等なのです。役割と責任の違いはありますが、神様の前に上も下もありません。上下をつけるのは、儒教等から来ている地上の肉の文化です。神の国には上下関係はありません。
この誤解があるから、日本のキリスト教界、特に東京のプロテスタント諸教会は、福音派も聖霊派も権威主義になって「誰が偉い」「彼が偉い」と、コリントの教会のように派閥があって分裂しているのだと考えます。
神学者の間でありがちな、私は誰それから教えを受けた等の主張は、誤った肉の誇りに過ぎないと私は考えます。
また、主任牧師が神学生や教会スタッフ等を指導する時に徒弟制度のようなやり方を取っているなら、聖書に照らし合わせてやり方が間違っていると考えます。
仕事や業務、働き(ミニストリー)の役割の上での権威の委譲や機能上の上下関係はありますし、必要でしょう。(下記引用、出18:21-22参照)
しかし、(並行な神の家族としての)兄弟関係と(身分の上下や服従の伴う地上の)師弟関係は両立しません。
私は聖書とイエス様の教えの原則に照らし合わせて、(技術の伝達・継承には優れているかもしれませんが)日本的な上下のある師弟関係は否定されるべき、改善されるべきと考えます。
この件に関して、非常に参考になる啓示を記載した記事を紹介します。リンク先全文をぜひお読みください。お勧めします。
【三つの軍隊】
https://note.com/risingdestiny/n/nf2449b6d82ef
反対意見7:先生と呼ぶのは尊敬を表わすことだから良いんだ
反論:高慢を招く2倍の尊敬を越える過度な栄光だからアウトです。「先生、先生」と崇められて、多くの牧師が高ぶり、先生と呼ばれなければ失礼と思うほどに高ぶるようになりました。また、先生と呼ばれなければ、自分は尊敬されていないと誤って感じるほどに信徒に飼い慣らされてしまいました。
福音派での教職者のミーティングで、福音派の男性牧師がとある牧師を「〇〇牧師」と呼んだら「無礼者!〇〇先生と呼びなさい!」とその牧師から顔を真っ赤にして叱責されたという実話があります(当事者から直接聞きました)。
高ぶりを招くような尊敬(それは尊敬とは言わずに偶像崇拝と言います)はアウトです。
また、ある日本人男性牧師が、とある教会に新しく赴任した際、「私のことは先生と呼ばずにさん付けでお願いします」と教会員たちに伝えたのにも関わらず、「先生、先生」と呼び続けるという話を聞きました。
本当にその牧師を尊敬しているのなら、本人が呼ばないでくれと言っているのだから、本人の意思を尊重して「先生」と呼ばないはずです。
これはうわべだけで実際はその牧師を尊敬などしていないのです。「巧言令色鮮し仁(ことば巧みで表情をとりつくろっている人は、かえって仁の心が欠けているものだ、の意。)」であり、その教会の信徒たちは偽善者です。
反対意見8:先生と呼ばないと失礼だから
「先生」と呼ばないと失礼、それは日本の地上の文化にすぎません。日本の一部でしか通じない文化です。聖書に記載された神の国の文化ではありません。
海外には牧師を先生と呼ぶ文化がそもそもありません。ですが、牧師に尊敬と敬意を十分表して彼らはやっており、先生と呼ばなくても何の問題もありません。
ノンクリスチャンに対しては「先生」と呼ばなければ失礼でしょう。おおいに「先生」と呼んで敬意を表して下さい。
しかし、クリスチャンに対しては、そもそも聖書にない地上の文化を持ち込むのはおかしなことです。
反対意見9:〜さん付けでは敬意を表している気になれないから
上記の、先生と呼ばないと失礼と同じで、文化的な思い込みに過ぎません。敬意はほかの方法でもいくらでも表せます。
反対意見10:日本の素晴らしい文化だから先生と呼んで良いんだ
いくら素晴らしい文化でも、聖書の教えと反するなら、それは適用してはいけません。
反対意見11:日本の敬語文化が聖書に反しているとは思えないから先生と呼んで良いんだ
イエス様が「先生」と呼ばれてはならないと禁止されました。イエス様はことばなる神であり、(父なる神を除いて)この天地を創られた最終権威者です。ですから、牧師を「先生」と呼んではいけません。
日本の敬語文化が聖書に反しているかどうかは仔細に説明する必要があり、ここで述べるにはあまりも紙面が足りませんので割愛させていただきます。
反対意見12:皆んな先生と呼んでいるのにあなただけ呼ばないのはおかしい
反論:この言葉は、同僚牧師を「さん付け」で呼んでいた牧師に対して、ある牧師が言った言葉です。「おかしい」と言った牧師は、霊的覆いがかかってしまっていて、もはや自分が何を言っているのか完全にわかっていませんね。日本人特有の同調圧力に屈しているとも言います。「不和雷同/附和雷同(自分にしっかりした考えがなく、他人の意見にすぐ同調すること)」とも言います。
上記の言葉は「みんな殺人を犯しているから、あなたも人を殺さないのはおかしい」「みんなレイプしているから、あなたもレイプしないとおかしい」と言っているのと同じです。昔コメディアンだったビートたけしが揶揄した日本人最大の悪徳「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を地で行く考え方です。
まあ、あえてその「おかしい」と言った牧師をかばうと、その方は自分が罪を犯しているという認識がないんでしょう。そして足並みをそろえないのは罪だ、くらいに考えているのでしょう。
皆がやっているからあなたもやらなければならないという理屈は、悪霊や自分たちの権威に従うように同調圧力をかけているだけであり(「支配の霊」)、やらなければならない根本的な理由にはなりません。すべての人が同じなわけではありません。一億総中流と言われた時代は終わったのです。日本人はすべての人が自分と同じだろうと考えてしまう悪い思考の癖があります。そして従わなければ、同じにしなければ村八分にして社会的に抹殺する、生活できないようにさせる、活動できないようにさせる、いわゆる「干す」ということです。これが江戸時代に徳川幕府が人を支配するために、またクリスチャンを迫害するために始めた日本人最大の罪の一つです。今も日本の芸能界や田舎、小さな会社等、村社会になっている組織で特に良く見かけますね。
こうして日本の牧師たちは、日本に来た海外の宣教師たちに今なお同じ罪を犯させ続けています。この「皆がやっているから~(罪を犯しましょう)」という意見に同調する時、その人は「同調の霊」「屈服の霊」に自分を明け渡すことになります。
反対意見13:皆んな先生と呼ばれているのにあなただけ呼ばれないのはおかしい
反論:この言葉は、ある聖霊派の教団内の牧師が、信徒に「さん付け」で自分を呼ばせていた同教団の同僚牧師に言った言葉ですが、上記「反対意見:皆んな先生と呼んでいるのにあなただけ呼ばないのはおかしい」と根が同じ内容ですので、上記の反論をご参照ください。
反対意見:先生と呼ばないと、和を乱し余計な軋轢を生むので知恵として周りに合わせている
反論:間違っていると分かっているのに、人を恐れて言わないのは知恵ではありません。姑息な偽善です。皆が言っているは言い訳になりません。
反対意見14:イエス様が先生と呼ばれているんだから先生と呼んで良いんだ
主にある兄弟姉妹の中で、イエス様は「先生」と呼ばれて良い唯一のお方です。イエス様は神ご自身で別格ですので、私たち自身は「先生」と呼ばれてはなりません。
反対意見15:学校の教師は先生と呼ばれるから良いんだ
学校の教員に関しては、私も悩みました。どう足掻いても生徒や親御さん、同僚から「先生」と呼ばれてしまうからです。しかもこれは言葉としても正しい用法です。
この件に関して、祈りの中で主にお伺いを立てました。「学校の教師はどうしたら良いですか?」と。すると主から霊において返事があり、「わたしは『あなたがたの間では、呼ばれてはならない』と語った。」と示されました。
つまり、こういうことです。クリスチャン同士では「先生」と呼ばれてはならないが、そうではない者たちからは今はかまわないとのことでした。
今は学校関係者の中にクリスチャンの比率は少ないので、大丈夫なのでしょうが、クリスチャンが増えて来たら、教師も「さん」付けで呼ぶ文化を創っていかなければならないかもしれません。
余談ですが、慶応義塾大学では、正式な式典や文書では、教授を「先生」ではなく「君」付けで呼ぶそうです。これは、塾祖・福沢諭吉だけが「先生」であって、他は学問の志を同じくする門下生かつ同輩であったという成り立ちに寄っているとのことです。
反対意見16:先生と呼んではならないとは言われていないから良いんだ
「先生」と呼ぶのはあなたにとっては良いかもしれませんが、「先生」と呼ばれる罪を兄弟姉妹におかさせるのですか?それは主の愛ではないと思います。ですから牧師・宣教師を「先生」と呼ぶべきではないと考えます。
また、呼ぶ人間がいなくなれば、呼ばれる人間もいなくなります。呼ばれる側が何もしないのならば、呼ぶ側が出来ることをするのが愛ではないでしょうか?
誰かが始めなければ、いつまでも状況は何も変わりません。イエス様の御心を成すために、あなたから、良い変化を生み出す第一歩を踏み出してみてはいかがでしょうか。
牧師の皆さん、なぜ先生呼ばれを止めさせないのですか?聖徒の皆さん、なぜ牧師を先生と呼び続けるのですか?
私も師や年長者を尊び敬う儒教文化の中で育った日本人ですから、尊敬できる牧師や宣教師を「先生」と呼びたくなる気持ちは痛いほどよく分かります。今でも喉から「〇〇先生」と出かかる時があります。絶対に呼びませんが。
牧師や宣教師の中には、本当にその人生をかけて、文字通り命をかけて、自分自身や様々なものを犠牲にしてイエス様に従い続けている尊い人々がたくさんいます。
私も数えきれないほど多くの牧師や宣教師や兄弟姉妹たちに助けられてここまで来ました。彼らがいなかったら、おそらく私は今ここにこうして生きていなかったでしょう。
困っていた時少ない生活費からお金を出してくれたり、聖書にそっとお金を挟んでくれたり、食事を奢ってくれたり、引っ越しを手伝ってくれたり、病気で倒れて動けなくなった時に家をあてがってくれたり、遠くから家まで訪ねて来てくれたり、家族が倒れた時一緒に警察や病院まで来てくれたり、裁判所まで一緒に付き添ってくれたり、行き場がない時に住まわせてくれたり、間違った時に本気で叱ってくれたり、涙を流しながら徹夜で祈ってくれたり、参考になる信仰書を差し入れしてくれたり、一緒に悪霊どもと戦ってくれたり、進む許可を与えてくれたり、ミニストリーのチャンスを与えてくれたり、会場を貸してくれたり、ネクタイの締め方から仕事の世話まで言葉で言い尽くせないほど非常にお世話になりました。
何より永遠の命であるイエス様を伝えてもらいました。家系の呪いで修羅地獄のようだった人生からも救ってもらいました。一生感謝してもしきれないでしょう。
しかし、それでも「先生」と呼んではいけないのです。呼ばれてはいけないのです。
クリスチャンが、クリスチャンの人間関係の中で「先生」と呼ばれるのはイエス様の御言葉に反する罪です。
それでもまだあなた方は先生と呼ばれるままにしておくのですか?牧師・宣教師を先生と呼び続けるのですか?
歴史上、世界で「牧師」を「先生」と呼ぶのは日本だけです。その的外れな(=罪の)文化、そろそろやめませんか?
(終)
どう思われますか?
私達は全員罪を犯しており、神の裁きにふさわしい者達です。しかし、父なる神様は彼の独り子を信じる者達のための裁きを満たすためにキリストを送られました。創造神かつ永遠の神の息子であるイエスは、罪のない人生を送られたのですが、私達が受けるはずだった罪の罰の身代わりとして死んで下さったほどに私達を愛しておられます。彼は葬られ、聖書に書かれている通りに3日目に死人の中から甦られました。もし、あなたがこのことを本当に信じ、心から信頼するなら、イエスのみをあなたの救い主として受け取り、「イエスは主です」と宣言して下さい。そうすれば、裁きから救われ、天国で神様と共に永遠を過ごすことになります。
あなたはどう応答されますか?
もしあなたがクリスチャンではなく、今クリスチャンになりたいのであれば、ただこう言って下さい。「主イエス様、私の罪を赦して下さり感謝します。今日、私はあなたに従うことを決めました。私をあなたの家族の中に受け入れて下さい。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」
WHAT DO YOU THINK?
- We have all sinned and deserve God's judgment. God, the Father, sent His only Son to satisfy that judgment for those who believe in Him. Jesus, the creator and eternal Son of God, who lived a sinless life, loves us so much that He died for our sins, taking the punishment that we deserve, was buried, and rose from the dead on the third day according to the Bible. If you truly believe and trust this in your heart, receiving Jesus alone as your Savior, declaring, "Jesus is Lord," you will be saved from judgment and spend eternity with God in heaven. We have all sinned and deserve God's judgment. God, the Father, sent His only Son to satisfy that judgment for those who believe in Him. Jesus, the creator and eternal Son of God, who lived a sinless life, loves us so much that He died for our sins, taking the punishment that we deserve, was buried, and rose from the dead on the third day according to the Bible. If you truly believe and trust this in your heart, receiving Jesus alone as your Savior, declaring, "Jesus is Lord," you will be saved from judgment and spend eternity with God in heaven.
What is your response?
If you are not a Christian, and would like to become a Christian. Simply say - "LORD Jesus, thank you for forgiving me of my SINs, today I am deciding to follow you. Accept me into your family, in Jesus name I pray. Amen "
詳しくは以下のリンク先を参照して下さい。
👉【福音】新しく生まれ変わる!(新生の祝福)
https://note.mu/risingdestiny/n/nb11945f61b7a
「天のお父さんからのラブレター」Father’s Love Letter - JAPANESE(7:06)
https://youtu.be/nWYmI_6tK28
永遠のいのちを受け取る(4:56)
https://youtu.be/m13Yae40ot8
【預言の学び】預言とは&個人預言を受ける際の注意点(改訂版)イエス様もなさった個人預言 の聖書の実例の解説、現在の個人預言の映像リンク集付き
https://note.mu/risingdestiny/n/n916fab966ed5
なぜ、ライジング・デスティニー(シャイニング・デスティニー)を始めたのか(20世紀〜21世紀の日本宣教史年表付)
The Reason We started Rising Destiny (Shining Destiny): The History of Japanese Mission from the 20th Century to the 21st C
https://note.mu/risingdestiny/n/nc415e4303df2
皆さまからの尊い寛大なサポートは活動費として大切に使わせていただきます。ありがとうございます。
note, SNS, WEB上にいる中国の異端のカルト宗教・全能神に関しての注意喚起
【教理の学び】三位一体(トリニティ)と現代の異端
https://note.com/risingdestiny/n/n534048dc9cd1
・三位一体(トリニティ、the Trinity):正統なキリスト教の教理
あなたを永遠に愛しておられ、あなたを唯一無二の存在として創造された、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は、まことにして永遠なる唯一無二のただおひとりの神(創造主)である。父、御子、御霊は、それぞれお互いに永遠に愛しあっておられ、同時にただ一つの唯一まことの神である。
・全能神教会(全能神)The Church of Almighty God:中国のカルト・異端。キリストが女キリストとして中国人女性として再臨したと説く。全能神の教祖・趙維山(ジャオ・ウェイシャン 1951年~)は自らを「大祭司」と唱え、大学受験に失敗し精神的に病んでしまった女性・楊向彬を「女キリスト」に祭り上げた。彼女は趙維山の愛人となり、後に妻となる。暴力、洗脳、ハニートラップ、スパイ活動など違法かつ強制的な布教活動を行なう。入会を断る、脱会を希望すると、「護法隊」と呼ばれる実働部隊が出動し、耳を削ぎ落とすなどの残忍行為を行なう。実際に死に至ったケースもあるという。2014年、中国山東省のマクドナルドで全能神信者が布教活動をし、勧誘拒否した女性を店内でモップの柄で撲殺する事件も起こっている。(2014年山東招遠カルト殺人事件)趙維山夫妻は、中国政府から弾圧を受け2000年頃に米国に逃亡している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/2014年山東招遠カルト殺人事件
フェイスブックグループ「キリストの羊」、フェイスブックページ及びブログ/HP「聖書の部屋」は一見するとそれと分からないが、「全能神」のサイトなので要注意。全能神信者がよくSNSでシェアしている。全能神信者は、人種(例.中国人が日本人に成り済ます)や性別を偽ってSNSアカウントを大量に作って勧誘活動を行なっている。noteの「高橋 智也」氏(momo125)、「ひで ひろ」氏(biblestudies)は全能神なので注意。
👉異端カルト110番
https://cult110.info/category/zennoushin-kyoukai-chinese-cult/
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