モノクロの写真

モノローグでモノクロームな世界     第一部 第一章 四

四、
 「ねぇ、この世界で変わらない物、何だか知ってる?」

「変わらない物?そんな物無いよ。君も知っているだろ?
西暦から衛生歴へと変わったあの時、何もかも全て失われたんだから。」
「えぇ、よく知っているわ。私達はあの時からずっと、大切な物を失い続けてきた。でも、今も変わらない物だってある。
ほら、見て。」
そう言いながら夜空を指さしたマドカの横顔は、透きとおるように白く、美しかった。細い指先から延びる直線は、夜空に浮かぶ月へと届き、それに呼応するように月は螺旋系を描き夜空を彩る。
「あのぽっかりと浮かぶ月だけは、今も変わらない。」
地上に届いた月光の光で遊びながら、マドカは言う。
「あぁ、そっか。うん、そうだね。」
僕はそんなマドカの姿をいつしか愛しいと思い、うわの空で相槌を返した。
「あの月と同じように、昔と変わらない物がきっと他にもあるって思っているの。だって、こんな世界、おかしいと思わない?色を消したのは一体誰?強すぎる感情は皆を滅ぼすなんて、そんなの幻想だよ。」
「だけど、そのお陰で僕らの国は誰もが安心で安全に暮らせる世界なんだ。こんな夜更けに外に出てもね。」
「そうね。確かにこの国は犯罪も病気も、衛生歴より前とは比べ物にならない位無い。でも、その代わりに、気づいていない?町で行き交う人々は皆、無表情で、誰かが笑う声も子供達のはしゃぐ声もしない、町から何も音が聞こえないってこと。
まるで、皆が息を潜めているかのように、ただ急ぎ足で時の中を歩くだけ。
ねぇ、私達は一体どこに向かっているの?
この世界は、一体どこに向かっているの?
どうして、こんな風に愛し合う事も誰かに好きと伝えることもしないの?」
マドカの問いに僕は答えることができなかった。
何一つ。
そんな僕を見透かしたように、下から僕を見上げるマドカは微笑みながら僕に告げた。
「ケイ、貴方はもう知っているはずよ。この世界が忘れてしまった物の正体を。貴方にそれを思い出させる。それが彼と最後に交わした約束だった。だから、私はそれを果たさなければいけない。どうせこの命はあと少しで燃え尽きる運命なの。だから、これは私が私の命に対して選択した結果であって、貴方はそこに対して何の呵責も受ける必要はない。
でも、一つだけ。お願いがあるの。いつかこの世界に色を取り戻して。私、世界の本当の色が見て見たい。」
 それが僕とマドカが交わした最後の会話だった。

 教会の屋根の縁で、僕は地面に落下したマドカを数刻の間、ただ凝視する事しかできなかった。
頭では解っていた。
『万が一、目撃者になってしまった場合は、町の安定を図るために、最寄りの衛生委員に直ちに報告をしましょう。』
だが、僕は小刻みに震えながら、一歩もそこから動けずに真っ赤に染まった地面と彼女を見つめ続けた。

 理解できない事に触れた時、僕は全身で激しく震えながら拒否をした。
それは昔からの癖だ。幼い頃は、この癖が特に顕著で、学校内でも家庭内でもしばしば問題となった。
『精神的欠陥』
それがたとえ自分自身に向けられる行為だったとしても、この世界では致命的な欠陥となる。強すぎる感情は、周りを巻き添えにして滅ぼすからだ。故に僕らのような感情を抑制できない人間は、異端児として扱われた。両親、特に母は僕の行く末を案じたのだろう。家の外や他人の目に触れる可能性のある場所で、この発作を起こさないようにと、幼い僕は感情抑制のため、沢山の薬と沢山の心理トレーニングを受けさせられた。それらのお陰で、僕は成長と共にいつしか発作を完全にコントロールできるようになっていった。
発作を克服し、色を忘れた僕は、漸くこの世界の住人になれたのだ。
母や父が誇りに思うような立派な人間に。

それなのに。

コントロール不可。制御不能。感情抑制の失敗。
頭の中でちらつくその言葉に呼応するかのように、手首につけた端末が僕の視界に心拍数の異常な上昇を告げた。
早く止めなきゃ。だけど、この震えの止め方が分からない。
箍が外れてしまった感情は、僕を次第に支配していく。
笑いだしそうな。
泣き出しそうな。
叫び出しそうな。
ともすれば口から零れ落ちそうな感情の代わりとばかりに、震えを抑えようとする意志に反し、激しく揺れ動く体と視界。

 
赤い血と白い世界が、
涙で歪む。

 

 どうか許して。
僕はまだ気づいてはいけないんだ。
僕はまだ振りをし続けなければいけないんだ。
『どうして?』
紅く歪む視界の中のマドカが僕の耳元でそう囁く。
『どうして、知らない振りをするの?』
「だって、だって・・・・・・・か、母さんが言っていたんだ。」
いいかい、ケイ、絶対に、
「・・・・・・ぜ、絶対に世界の秘密を知ってはならないっ!」
『気づいているくせに。秘密は暴くためにあるって。』

違う。
嫌だ。
知らない。
僕は知らない。
世界の秘密なんて。
思い出させないで。
『本当は気づいていたんでしょ?
この赤い血が自分の中にも流れていることを。
白と黒だけなんて嘘だってことを。

この世界に隠された色を見つけなければいけない。
僕らが本当に白くなってしまう、手後れになるその前に。」
僕の頬を透明な滴が一滴、頬を零れ落ちていった。
地面に落ちた水滴は真っ白な屋根に小さな水たまりを作っていく。
何年ぶりだろうか、僕の瞳から雫が零れ落ちたのは。
その水たまりに映る自分の顔を見つめる。
銀色の月光に照らされた白一色なんかじゃない、本当の僕の顔を。
灰色の髪の毛に、青い瞳。
まるでかけられていた魔法が解けていくように、一斉に僕の瞳は僕に色を教えた。
そうだ、僕は知っていた。
マドカが言ったように、そう、ずっと前から気づいていた。
彼女が僕の前で飛び降りる、ずっと、ずっと遥か昔から。
「うん、知っていたよ。この世界から色が消えたんじゃない。
僕らが色を喪ったってことを。」
だけど、それは気づいてはいけない秘密だった。
この世界で生きていくには、重すぎる秘密だから。
あの時、僕はそれを悟った。
「皆、僕の事を否定したんだ。この世界は白い。この世界に色なんて存在しない。赤も、青も、金色も、緑も、紫も、そんな物は存在しないと。
だから、僕はずっと知らない振りをし続けた。色が見える僕はおかしい。
だから、色なんて知らない振りをし続けてきたんだ。」

マドカを失った喪失感も、罪深さも、目の前の惨劇に対する衝撃も、
僕の秘密の独白も、世界の秘密も。
何もかも飲み込もうとするかのように、突然降り出したスコールに背を打たれながら、僕はただひたすら教会の屋根の上で泣き続ける事しかできなかった。

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