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モノローグでモノクロームな世界    第二部 第三章 三

三、
 ドームの外に見える荒廃した大地は、幾らナインヘルツや政府が明日への希望を謳っても、人々に絶望をもたらし続けた。
戻らない現実。戻らない過去。戻らない人々。

 声高に発信される希望に満ちた内容よりも、毎日、目にする内容の方が優先されるからだ。顔を見せない太陽も、どんよりと取り巻く暗闇も、人々の顔を次第に曇らせていった。
全ては身勝手な政府により、この事態がもたらされたのだ。中にはそう怒る人々も多くいた。彼らの怒りの矛先がナインヘルツに向かうのは、時間の問題だと言えよう。
  地下で一緒だったあの男が、私の元を訪れたのはそんな時期だった。
「君は確か、共感覚について研究していたと言っていたね。」 
現在はナインヘルツの高官の職に就いていると私に説明した男の問いに私は、肯定の意味で頷いた。

 共感覚は、ある外部刺激に対し通常の感覚反応以外の感覚現象を引き起こす状態を言う。例えば、ピッチや音色などの音響的特性から、通常は起こらない明暗や色彩などの感覚現象を呼び起こす状態だ。その他にも様々な感覚現象の例があるが、比較的多い例としては、音を聴くと色彩が見える等、『聞く』という通常の感覚以外に視覚的に『見える』という感覚現象が付随するものだ。
 あの地下倉庫で時間を持て余していた私は、かつて男にそんな話をしたことがあったことを今更ながら思い出す。
「確かに。もう随分昔の事になりますが。それが、一体?」
「・・・・・・共感覚という現象は、後天的にあらゆる人々に引き起こすことは可能か?」
「あらゆる人々?」
男の問いに私はどう答えるべきか、答えに詰まった。

 共感覚は、脳の中のどこか一部に局在するものではない。複数の脳領域を繋ぐニュートラル・ネットワーク、つまり神経回路がこれらの現象に関与していると考えられている。別々の反応を起こす脳領域、あるいは、神経回路間のクロストークが、通常の感覚刺激に対する反応よりも、過剰に起こり、それが共感覚として現れる。これは、共感覚が現れたとしてもすぐに消える、時間にしてもその間はせいぜい1、2秒であることからも、脳領域同士の一時的な協同であることが伺える。
 彼が言ったように、それは後天的にあらゆる人々に対して引き起こすことは可能か、否か。共感覚を引き起こすには、クロストークの過剰発生が必要になるが、このクロストークは、脳の損傷、薬物や病気等により、後天的に現れることがある。例えば、幻覚剤は様々な刺激に対し過保護な状態にあるニューロンを抑制するセロトニンと拮抗し、その結果、クロストークの過剰発生が起こり、音の刺激に対し、視覚タイプの共感覚を引き起こすと言われている。
「・・・・・・できなくはないと思います。ですが、そんなイリュージョンめいたことを、沢山の人々にして一体、何をすると言うのですか?それに、共感覚は、一時的な物です。それを持続させるなど。」
多くの人に共感覚を引き起こし、同じ刺激を与える。それに一体何の意味があるのか理解に苦しむ。
私の問いに男は、座っていたソファから立ち上がると窓の方へと歩きながら話始めた。
「君は知っているか?各国で、自殺者が増えていることを。」
「何となくは。そんなニュースや噂が流れていましたから。」
「今朝の最新の統計では、三桁を越えた。日に日に、その数は増えていくばかりだ。幾らトリプルが命の危機を警告しても、人の行動は止められない。
警告音が鳴る傍らで、彼らは高い所から飛び降り、ナイフで手首を切り、この新しい世界をその血で汚してく。」
「・・・・・・人間の意志の前には、機械は無力ですからね。」
「私には、正直、理解不能だ。なぜ、せっかく助かった命を自ら投げ捨てるのか。」
男の言葉に、私は言葉を返すことができなかった。

 正直に言えば、死にたいと思ったことは、この世界になってからも思わなかったわけではない。ただ、ここ最近の自殺者と異なる点と言えば、私の場合、この世界が生まれ変わるその前からそう思っていたという点ぐらいだう。
「そんなにも、死を望むのならば、止めてやる必要はない。」
「え・・・・・・・」
男の乱暴な言い草に息をのみ、その顔を見つめる。
眼鏡の奥の冷たい瞳を。
「だが、ナインヘルツとしては無論この問題を見過ごすことはできなかった。ただでさえ、生まれたばかりの不安定な世界だ。その足下を掬う原因
になる可能性がある。そこで考え出された答えは、トリプル・システムのそれと同じだ。」
「というと?」
「解決できない問題は根本から、摘み取ればいい。つまり、人々の負の感情を取り除けばいい。」
「そんな・・・・・・」
男の余りの乱暴その言葉に、私は今度こそ本当に言葉を失った。

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