アレグロ・バルバロ 9

 月日は過ぎ、アマービレがこの地に来てから早くも半年が過ぎようとしていた。

 ハナの怪我は、順調に回復をしていき、日常生活においては、特段の支障も無い程にまでなっていた。相変わらず、飛ぶことは出来ないので、配達の仕事はアレグロに任せ、ハナはアマービレの付き人の仕事に勤しむ毎日を送っている。
 アマービレは、ここの所、彼女と一緒に堕ちた馬車へと足繁く通っていた。自分の国に向けて、SOSを出すためだ。
「CQCQ・・・・・・」
日に二回、太陽の光の影響を受けない時間帯になると、ハナとアマービレは、バスケットにサンドウィッチや飲み物、沢山のお菓子を詰め込み、白い日傘をさしながら、二人、街外れの空屑の谷を目指す。

 空屑の谷は、この国のありとあらゆるゴミが集まる場所だ。アマービレの馬車も、もう元には戻らないと判断された段階で、この空屑の谷へと廃棄されていた。
「ここ、すごいわね。沢山の物で溢れている。」
「国中のごみがここに集まりますからね。」
「例外なく?」
「えぇ。誰かが要らないって判断したら、例外なく。」
いつか、飛べないことが皆にばれたら、自分もこの空屑の谷へ捨てられるかもしれない。そんな妄想に、ハナは思わず体を小さく震わせた。

 ごみの谷底から見上げた青空は、どこまでも澄み切っていた。
アマービレは高いヒールを履いているというのに、器用にごみの上を歩いて行く。二人は空屑の谷の端っこで、巨大な流木にひっかかりぶら下がっているアマービレの馬車の中へと入りこんだ。
 馬車の中は狭い。向かい同志に座り込むと、持っていたバスケットの蓋を開け、中に入っていた食材を馬車の椅子の上に並べていく。
最後の食材を出し切ると、ハナはバスケットごとアマービレに渡した。
彼女は、ハナからバスケットを受け取ると、中から小さな黒い機械を取り出し、首からぶら下げていた小さな真鍮の鍵を、小箱の鍵穴へとさしこんだ。

 カチリという音と共に、微かな機械音をあげながら、黒い小箱は、アマービレの手の上で、アンテナと小さなスピーカーを備えた通信機械へとその姿を変えていく。何でもない物が、意味のある物に変わる瞬間。
ハナの目には、それはいつも、魔法のように映る。
完全に機械が変形を終えると、アマービレは、銀色のアンテナを目一杯まで伸ばし、マイク部分に小さな声で呼びかけた。
「CQCQ、こちらアマービレ。どなたか聞こえていますか?」

 何度かその台詞を繰り返す彼女に対し、小箱は沈黙を守り続ける。彼女は、暫くすると首を小さく振り、諦めたように溜息をついた後で、通信機械の電源を切った。そうして、アマービレから受け取った小さな小箱をバスケットに丁寧に戻すと、ハナは、空屑の谷で見つけた簡易テーブルの上に、持参した赤いクロスをセッティングしていく。サンドウィッチに沢山のお菓子を、テーブルの上に並べ、馬車を縦に貫いている流木の小枝にランタンをぶら下げる。
 ポットから注いだばかりの琥珀色の液体を優雅に喉に流し込みつつ、アマービレはハナに一言呟いた。
「今日も、駄目。いつになったら、帰れるのかしら。」
「この馬車は、修理できないんですか?」
通信が出来なくても、馬車が修理できれば戻れるのではないだろうか。
そう思い尋ねたハナへ視線を向けると、アマービレは首を横に振った。
「いいえ、出来ないわ。たとえ、この馬車が修理できたとしても、肝心のあの翼を持つ馬達は、もう二度と飛べない。」
「そんな。でも、翼は治ったって、獣医さんは。」
「地上に降り立ったあの子達は、二度と飛び立つ事はできないの。大丈夫よ。飛べないことは可哀そうだけれど、あの子達は、いずれこの土地に慣れていくはずでしょう。あれは、強い生き物だから。でも、どうやら、私は駄目みたい。」
「そんな事ないですよ。国中の人が、皆、貴方を歓迎しているのだし。」
そう言葉を紡ぐハナに対し、アマービレは白い手袋を外すと彼女の目の前に自分の右腕を突き出した。
 突き出されたその腕は、白く滑らかな肌ではなく、まるで木のように、所々節くれだち、汚い茶色に変色をしている。目の前の光景が理解できず、ハナは、アマービレの白い顔を見あげた。

 「私も子供の頃、話に聞いた事があるだけだったから、本当に起こるなんて自分の身の上に降りかかるまで信じていなかったの。」
「何が起こっているの?」
「私達の住む世界とこの世界は、空気も水も土も何もかもが異なるの。長い時間、地上の空気や水、土に触れていると、私達の躰は、木のように変形を起こす。それが始まったら、もう止める事はできないの。」
「そんな・・・・・・。」
「もう、時間が余り無いの。」
「何かっ、何か症状を止める方法は無いんですか?」
身を乗り出しそう尋ねるハナに、だがアマービレはどこか疲れた表情でゆっくりと首を横に振った。
「天空に戻れれば、薬があるけれど、ここには何も無いわ。せっかくアレグロが助けてくれた命だから、私だって無駄にしたくない。それに、天空にもし、戻る事ができたら、会いたい人がいるの。だから、完全に動けなくなる前に、戻りたい。」
「会いたい人?」
「えぇ。とても好きだった人。それなのに、私は傷つけてしまった。あの嵐の日に。
 私がこの地に堕ちたのは、天罰みたいなもの。だから、きっとこんな罰を受けたのね。だけど、もしも許されるならば、あの人に一度だけでも会いたい。会って、謝りたいの。傷つけた事を。」

 馬車の窓から空を見上げるアマービレの顔を見ながら、ハナは気が付けばそう言葉を繋いでいた。

「私に何かできることはありませんか?」

 別に彼女の事が好きになったわけではない。今もアレグロと親し気に微笑みあう彼女の姿は、好きにはなれない。だが、彼女が教えてくれた後悔の気持ちは、ハナには痛い程、理解できた。
 それは、自分ではない誰かを好きになったからかもしれない。
大切な人を、アレグロを、傷つけてしまったら。傷つけたまま、会えなくなってしまったら。後悔と懺悔にどれほど、苛まれ続けることだろうか。
だから、その言葉を彼女に告げたのは、ハナの本心から出た言葉だった。
アマービレがどこまで、ハナのその言葉を待っていたのかは分からない。できれば、ハナの心が共感した彼女の後悔だけは、本当であって欲しいと、今でもハナはそう願っている。

 アマービレは、見上げていた空から視線を戻すとハナの顔をじっと見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「一つだけ、方法があるわ。」
アマービレの真っ赤な唇が、アレグロに話しかける時のように、歪に微笑むのを、ハナは静かに見つめていた。

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