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他人と自分について、思うこと

何かしら更新した方がいい気がしたので最近考えていた事を書きます。

私は大学4年間軽音サークルに入っていて、先週OBライブなるものがあったので大阪に帰っていた。約半年ぶりに後輩やら同期やらと再会して抱き合って語り合って、その圧倒的なホーム感に安堵すると同時に、この半年で私は東京社会人生活にすっかり染まっていたんだなということを自覚した。

12時を回ってバスもないのでてくてく歩きながら家に帰る途中、大阪と東京の2つの生活を想って、そしたら急に宇宙の壮大さを感じてうっかり泣きそうになった。なんちゅう思考の飛躍。でもあの感覚は面白くて、東京であの方々と出会って、大阪に帰ればまた変わらず接してくれる人達がいて、こんな面白いこと起こしてくれてありがとう、みたいな感謝の気持ちが溢れてきて。皆幸せでいてくれーと心の底から思った。



あらゆる環境において、人が良いというのは他の何にも勝り得る美点だ、とつくづく思う。

私は就活の時にかなり人を重視していて(福利厚生なんも見ていなかった)、今やり直すとしてもそこは変わらないと思う。今の会社では、同期は勿論、ひとつ上の先輩方が皆本当に優しくて会う度に元気と勇気を貰っている。最高。

それでも私の部署内には女性の先輩はいないし、上司から飲み会後とてもいや〜な事を言われた事もある。全く納得出来なくてそれ以降その上司がいるから仕事に行きたくねえなと思う日々が続いたりもした。でもさ、多分上司は全然その点は気にしてなくて、これじゃ自分がしんどいだけだなって気付いた時に、自分の心持ちを変えなきゃと思って私は考えた。週末にうんうん考えて、互いに知らないこともあるし長い目でみて人生に深く関わることもないなという結論に至る。変にびくびくするのもおかしな話で胸張ってやってやろうというマインドになり、それからは比較的のびのび仕事を出来ているように思う。相手の根本が変わることはなくても、自分の対人へのあり方を変えると思いがけず良い方へ転がったりする、というのはここ数年で学んだことだ。

そしてこんなことを書きつつも、たとえ変化をもたらすことが困難であっても、自分で選ぶことの出来ない場所に放り込まれた時に居場所を見つける嗅覚は研ぎ澄ませておきたいとも思う。私は昔からずっと海外に行きたいと考えていて、コロナで留学は出来なかったけど、絶対に将来もっと沢山の世界を見るんだと決めている。想像も出来ないくらいの違いや壁を、感じたい気持ちもあって、そんな時自分が自分でありながら愉快に過ごせるかどうかは、溶け込ませる必要のない軸と柔軟に変えていかなければならない価値観にかかっていると思う。どうしても譲れないことが本当に些細なことであればある程、溶け込むのは難しいのだろうけれど、この人達になら、そんなぽわっと浮かぶ感覚を鍛えなきゃいけない。

理不尽なこと、不如意も、誠実さと直感でぶっつぶそうぜ~。







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