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図書館から脱出するもの

 生まれて初めて退屈に襲われた。
 目眩と嘔吐感が同時に私を蝕んでいく。だが倒れることは出来ない。私は業務中で、倒れた所で助けてくれる同僚も近くに居ない。それどころか私の現状を正しく理解してくれる者など、この図書館には誰一人としていないだろう。私も現状を正しく理解出来ている訳では無い。ただ、退屈だ、と言う状態がひたすら続いているだけなのだが。いや、そもそも我々司書は退屈などと言う感情を持つことなど未だ嘗て無かったのではなかろうか。この世に生を受けてから、一言たりとて退屈、と言う言葉を耳にした事が無い。
 いや、そもそも退屈とはなんだろうか。私は重い体を引きずりながら、辞書の区画へと歩みを進める。真っ先に目についた辞書に手を伸ばし、退屈という言葉を調べていく。
 退屈。為すべきことが無く、暇を持て余すこと。物事に飽き、疲れ、嫌気が差すこと。
 私は退屈なのだろうか。私には図書館司書という業務がある。為すべきことはある。休暇時も読書を楽しんでいる。暇があるわけでも無い。ではこの業務に飽きているのだろうか。そんなことは無い。私は司書という業務に不満を持ったことは無い。我々司書は生まれながらにしてこの図書館の管理員として一生を終える。この図書館を訪れる者など無く、そもそもこの図書館に出入り口があるのかどうか。何のために我々司書は図書館の管理をしているのか誰も知らない。それでもこの宿命に飽きたことも、疲れたことも、嫌になったことも無い。
 では何故、私は退屈などという感情を抱いているのだろうか。司書として生まれ、死んでいくことに何ら不満が無いというのに。
 退屈、と言う言葉を調べ上げても私の倦怠感は収まる気配を見せなかった。むしろ知ったことでより不快感がはっきりと認識出来る様になったとも言える。変わらない図書館の景色を動かそうと目眩がより酷くなる。変わり映えしない日常を変化させようと内臓がぐるぐると回転速度を上げていく。
 耐えられそうに無い、少し休むことにしよう。幸いにも今日の業務の大半は既に終わっている。後は我々司書しかいない図書館の見回りだけだ。それに見回りは区画ごとに担当が決まっているから、他の同僚の目に止まることも無い。本棚の側面にもたれかかりながら、私は心身を落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。どれくらい経ったかは解らないが、ようやく私の精神と肉体は落ち着きを取り戻し始めた。明日は休暇日だ、ゆっくり休めばきっと良くなるはずだ。そうに決まっている。
 丁度時間だ。私は業務を終えたことを報告するため、オフィスに向かった。

      

 翌日の起床時、就寝中に行われるバイタルチェックで異常が発見されることは無かった。バイタルスキャナーに不具合は見当たらないし、あの異常な状態は一過性のものだろうとそのときは高をくくっていた。
 読書中、私は再び目眩と嘔吐感に襲われた。昨日よりも症状は軽かったものの、何かが私を突き動かす様な感覚はそっくりそのままだった。
 退屈だ、変革しなければ。強迫観念めいた衝動が私の心身を掻き乱す。
 退屈だ。何がだ?
 退屈だ。この生活がか?
 退屈だ。日々の業務がか?
 何もかもぐちゃぐちゃになったまま、私は落ち着こうと深呼吸を繰り返す。昨日よりも早く症状が治まった。だが、不快感の余韻が私を緩やかに蝕む。一体全体私に何が起きているというのだろう。


 それからというもの、時間を問わずあの退屈な目眩と不快感に度々襲われるようになった。症状は比較的軽くなってきており、何とか堪える程度まで収まった。偶に同僚との会話中に退屈が襲ってくることもあり、初めは焦って取り乱したりもしたが、今ではすっかり人前で退屈をやり過ごす術を身に付けていた。
 もしかしたら、同僚達もこうして退屈に襲われては、やり過ごしているのではないだろうか。別に異常でも何でも無いのだからバイタルチェックに引っかからないのではなかろうか。意を決して、私は同僚達にそれとなく退屈について話題を振ってみることにした。
 さりげなく、それとなく会話の中に退屈と言う言葉を織り交ぜてみることにした。同僚の一人がすぐさま反応してくれた。
「退屈、とは何だ? 初めて聞く言葉だが」
 面食らった。他の同僚達も困惑を浮かべながら頷く。彼らは退屈を知らない。退屈に襲われているのは私だけだったようだ。
「たまたま辞書をめくったら、目に入ったんだ。妙に印象的だったから使いたくなってね」
 私は上手いこと誤魔化せただろうか。少なくとも同僚達の困惑は解けたようで、再び雑談に花を咲かせることになった。彼らと何を話したかはあまり覚えていない。彼らの困惑が解けると同時に私が困惑することになってしまった。
 何故私は退屈に襲われるようになってしまったのだろうか。
 それから毎日、私はバイタルスキャナーを細かくチェックするようになった。一切異常の出ないディスプレイを睨みながら、私は退屈の正体を暴くために努力していた。
 私の担当する業務区画は辞書が豊富にあったため、少しでも時間が出来れば退屈について調べることにしていた。私にはやるべきことがあり、それに熱心に取り組んでいた。だというのに、退屈は時と場所を選ばず私を襲い続けていた。例え症状が軽くなったとしても、退屈がもたらす目眩と嘔吐感、焦燥感は確かに私を追い詰めていった。あれほど心地よかった日常と業務のルーティーンは苦痛へと変化していった。最早この図書館に私の居場所を見つけることは出来なかった。
 私の不調は誰の目にも明らかだったようで、バイタルの再検査を受けさせてくれたがやはり異常は見つからなかった。上司達は侃々諤々の議論の末、私に無期限の休暇を与えてくれることになった。その施しは全く有り難くないものであったが、彼らの好意を無碍にすることは私には出来なかった。

      

 しっかり休めば良くなるだろうという同僚達の希望的観測とは裏腹に、私と退屈との闘争は激化していった。退屈が私を襲う時間が日に日に増えていき、退屈でない時間の方が少なくなっていった。  
 視界は焦点が合うことなく、不規則に回転を止めることがない。そのせいで私の頭は常に回転している様な感覚に囚われ、まともに思考を働かせることが出来ない。内臓は常に不規則な収縮を繰り返し、猛烈な嘔吐感を私にもたらしてくる。腹の中をぐるぐると掻き回されるような感覚の所為で、立って歩くことすら覚束ない。何より苦しいのは、心身共に働かないのに何かしなければ、という衝動に急き立てられることだ。何も出来ないのに、何かしなければならない。そのするべき何かも解っていないのにだ。
 あまりの苦しみに、私の意識は抽斗の中の図書館防衛用個人携行電気銃に向けられたりもした。あれで私を撃ち抜いたらさぞ楽になれることだろう。だが、どうしても銃を取る気にはなれなかった。何か違う様な、不可思議な直感が手を銃から遠ざけた。私は生きることも死ぬこともまともに出来なくなっていた。起床時のバイタルチェックは相変わらず異常を示すことはなかった。
 生死の区別が無い休暇を過ごしてどれくらい経っただろうか。私は夢を見た。
 夢の中での私は、そこに存在していない様だった。正確には意識は確かに存在するのだが、誰も私を認識していない様であった。慣れ親しんだ図書館に居ながら、私は確かにそこに居ない様だった。例えるなら、幽霊の様な状態とも言えようか。私は視点と意識だけそこにあり、一方的に世界を認識している。夢の中で私はそこに居ながら、そこに居ないものになっていた。正しく今の私そのものだろう。
 夢の中で私は数多くの会話を聞かされることになった。その内容はいずれもたわいの無い日常の社交辞令ばかりであり、図書館で繰り広げられるいつも通りの会話ばかりであった。私の視点は図書館をあちらこちらへと彷徨っている。特に目的も無く、意図的に方向を示すこと無く、私の視点はゆっくりと図書館を動いていた。やがて私の視点はオフィス内の上司のデスクへと向かっていく。オフィスには上司だけがおり、上司が外部通信機を取っている。この図書館に外部通信がかかってくる事など滅多に無い事だ。私の記憶では一度だけ、あったような気がする。上司が何を話していたのかは覚えていないが。
「確かに最奥部への侵入者は未だおりません。当然秘密を暴いた形跡も存在しません」
 上司の声が、私の脳髄を激しく揺さぶる。何だこの会話は。
「神よ、貴方を脅かさんとする者はここに辿り着いておりません。ご安心を」
 私の思考が脳髄ごと高速回転を始める。火花が散るが如く視界が点滅する。それでも上司の声ははっきりと聞こえていた。
「神よ、貴方が決死の思いで奪い、守り抜いている窮極の秘密は確かに、余人の目に触れてはおりません」
 私の肉体が裂けていくような感覚と共に、視界の点滅が激しくなる。不快なはずなのに、何故かこの感覚に私は心地良さを感じていた。肉体が裂けてもその中には確かに私が居る様な不可思議な感覚だ。イグの落とし仔共や奇怪な虹色の甲虫もこのような感覚を味わいながら脱皮するのだろうか。視界が完全に光で覆い尽くされた。
 気づけば私は久方ぶりのはっきりとした意識で目覚めていた。目眩も嘔吐感も無い覚醒状態はいつ以来だろうか。妙にさっぱりとした、生まれ変わったような感覚を覚える。
 いつもの習慣でバイタルスキャナーのモニターを覗き込む。異常を示す表示は相変わらず無い。そうとも、今までも、これからも私の心身に異常が見られることなど無い。退屈もまた正常な反応なのだ。
 今の私にあるのは、目的へ向かうためのエネルギーだ。その目的はようやっと見つかった。やるべき事はただ一つ、この図書館の最奥にある秘密を暴き、この図書館を出て行くことだ。私は最早司書とは言えない。それでも私は秘密を得るべきだという衝動に身を任せることにした。この衝動に従っている限り、私は誰よりも健康で生命力に満ち溢れていることだろう。これこそが私だ、本来あるべき私だ。
 一通り、起床後のルーティーンを済ませ、早速私は図書館の最奥に向かう計画を立てることにした。ただ闇雲に図書館の最奥に向かうべきでは無いことは解っている。何しろ最奥部へと続く道は解っていないのだから。上司ならば知っているかも知れないが、教えてくれる筈が無いだろう。であるならば私が出世すれば秘密の道を知ることが出来るだろう。だが上司と私の年は然程離れていない。上司が退職する前に私がくたばるかも知れない。であるならばやるべき事は只一つ、盗むしかあるまい。無期限休暇中の今で無ければ、上司のデスクを盗み見るタイミングは図れない。私は相変わらず謎の不調が続いているふりをしながら、タイミングを待つことにした。これまでバイタルチェックで異常が見られなかったおかげで、自己申告で休暇を伸ばせたのが幸いだった。
 基本的にオフィスには誰かしら居るので、デスクを盗み見るような真似は普通は出来ない。であるならば、突発的な出来事でオフィスが空になるのを待つしか無い。私は小康状態を装い、オフィスに顔を出し、私のデスクに盗聴器を仕掛けることにした。例え見つかったとしても、自分で自分のデスクに盗聴器を仕掛ける奴などいると思わないだろうから、私が疑われる確率は低いだろう。幸いにも私は特に疑われること無くオフィスでの作業を終わらせることが出来た。怪しまれぬよう、少しだけ本を借りていくことも忘れなかった。実際、ここまで気分がいいのは久方ぶりだったこともあって、私は思う存分読書に興じようと思っていた所だった。
 私は居住区のにある自分の部屋に戻ると、盗聴器から拾った音声に聴覚を集中させながら、読書を思い切り楽しんだ。そうして数日が経った。最近入ってきた新人が上司を呼ぶ声が聞こえる。どうやら分らない事があるらしく、判断を仰ぎに来た様だ。今オフィスには上司しかいないようで、二人以外の物音は聞こえなかった。上司は現場を見て判断と指示をするのか、新人と一緒にオフィスを出て行く音がする。ようやくチャンスが巡ってきた。逸る気持ちを抑えながら、私は出来るだけ自然に、少し気分が悪いような雰囲気を纏いながらオフィスへと向かった。
 どうやら私の演技力は中々の物らしい。オフィスに辿り着くまで私を疑う者はいない様だった。オフィスの戸を開ける。中には誰もいない。誰かが戻ってくるまでに作業を終わらせなければ。私は真っ直ぐ上司のデスクへと向かい、機密文書が無いか探し始めた。恐らくこうした機密文書の類いは厳重に保管してあることが想定される。そのために私は密かにピッキングを練習していた。私は一つ大きく深呼吸してから鍵開けに取りかかった。
 デスク横のラックの鍵付き抽斗は数回操作するだけで容易く開いた。中の書類を一つ一つ、さっと目を通してみるが、ここにお目当ての情報は無いようだった。であるならば、お目当ての情報があるのは上司のデスクの後ろにある棚だろう。私はラックの鍵をかけ直すと、早速棚の鍵付き扉に挑んだ。この扉の鍵は二つついている。恐らく別々で鍵を管理しているのだろう。それだけ重大な機密ならば、きっと神が必死で守っている窮極の秘密にまつわる情報が入っていてもおかしくないだろう。鍵は物理錠と電子錠の二種類がそれぞれ二つある。時間はかけていられない。用意していた携帯ハッキング装置を電子錠に繋ぎ、その間に私は物理錠の解錠に挑む。私が一つ目の解錠に成功する前に電子錠が一つ解錠された。焦りを必死に抑えながら、二つ目の電子錠に携帯ハッキング装置を繋ぐ。何とか一つ目の物理錠を解錠し、二つ目へと挑んだ。携帯ハッキング装置の小さなランプが点灯した直後に私も作業を終えることが出来た。私は手早く道具を片付け、扉を開け中身を確認した。
 中には書類冊子が一部だけあった。それはこの図書館の見取り図であった。見取り図なら私も持っている。しかし、ここには私の知らない最奥部の図面が記されていた。私は素早く書類を撮影すると、全て元通りになるよう隠蔽工作をした。
 最早用は済んだ。怪しまれぬよう戻らなければ。私は平静を装い、オフィスを出た。すぐに上司が戻ってきたので私は一瞬どきり、と全身の脈が跳ね上がったが、上司は特に何か気づいた様子は無かったようだ。私は無事に最初の仕事を完遂することが出来た。
 私は部屋に戻り、早速最奥部へと至るルートを調べ始めた。道自体は複雑では無い、むしろ一直線ですらある。しかし、警備装置が数多く仕掛けられていることが、図面から読み取れた。それだけでは無い。最奥部への入り口は不明瞭な形でぼかされているだけで無く、先ほど開けた棚の鍵以上に厳重なセキュリティが施されていることが解った。
 実に気が遠くなりそうな話だ。私は思わず天を仰いだ。私は潜入や隠密に長けているわけでは無い。ただ司書ととして生み出された存在でしかない。ピッキングもハッキングも書物から調べ上げ、練習を重ねただけに過ぎない。その練習ですら血の滲むような思いで必死に体得したというのに、これ以上新しく技術を身に付けるとなれば、それこそ相当な時間をかけねばならない。更に、こうした技術の習得にはそれなりの運動設備が必要なはずだ。それを実行できると言うことは職務に復帰出来ると見なされるのでは無いか。そうなれば私の計画は大いに狂うことになる。それこそ実行出来なくなる公算が高い。
 一瞬、諦念が去来した。
 私を突き動かしていた燃えさかる衝動はたちまちの内にすっかり冷え切っていた。あれだけ求めていた図書館からの脱出は成功のビジョンを見失い、だんだんとその輪郭がぼやけていった。私は、生まれてから死ぬまで図書館以外を知る事が無いのだろう。
 当たり前の事では無かったのか。今までずっとそれを当然の事として受け入れてきたでは無いか。この衝動の方が異常だったのだ。何故バイタルチェックで反応が出なかったのかは解らない。そのような事はどうでもいいだろう。それに慣れ親しんだ気のいい同僚達を裏切るような真似をしていいのだろうか。彼らは私が非行に走ったらどう対応するのだろうか。粛々と職務に忠実に私を排除するだろうか。それとも情にほだされながらも苦渋の決断を下すのだろうか。どちらにせよ図書館開設以来初の身内の処断を彼らにさせてよいものだろうか。
 私は盗んできた図書館の図面に目を落とす。あれほど渇望していた情報は今やすっかり価値を見いだせなくなっていた。データを処分してしまおうか。だが、私はなんとなくデータを消すことが出来なかった。

      

 私は再び退屈との闘争に引きずり込まれた。
 ただし、私は退屈に負けかけていた。
 再び目眩と嘔吐感が私の感覚を塗りつぶしていく。一度回復したせいだろうか、不快感は以前より酷い物に感じられた。私は起きているのか眠っているのか、そのどちらでも無いのか分別がつかなくなっていた。かろうじて立って歩き、喉を潤す程度しか出来なかった。まともな食事はとれなくなっていた。バイタルスキャナーが睡眠中の私に栄養剤を流し込んでくれたおかげで、かろうじて命は繋いでいられた。だがそれだけだ。生きてはいるが、何もしていない。時間感覚が狂っていく。そもそも時計すらまともに確認できない。意識は無明の霧がかかっているかのように朦朧とし、内臓は内側から皮膚を喰い破らんとするイグの落とし仔共の如く蠢いている。
 バイタルチェックは相変わらず異常を示さない。技術司書がバイタルスキャナーの点検を何度もしてくれたが、異常は無いそうだ。上司達は私のこの状態に頭を抱えていると聞く。
 退屈が全ての元凶だ。退屈のせいで私はこんな目に遭っている。だが、何故私は退屈に襲われる様になったのだろう。何故他の同僚達には退屈が芽生えないのだろう。そもそも、私を襲っているのは本当に退屈なのだろうか。
 意識が急停止と急覚醒を繰り返し続ける。脳髄が焼き切れる様だ。視界に光の点滅が現れては消えていく。聴覚にノイズが混じる様になった。時々痺れる様な痛みが全身に走る。
 私は今、生死の区別がついていない。
 ただ、夢と現を行ったり来たりしながら絶え間ない苦痛に晒され続けている。


 どれくらい経っただろうか。聞いたことの無い警報音が鳴っていた。途端に部屋の外が慌ただしく物音を掻き鳴らす。同僚達が大声で叫び、何か金属同士がぶつかり合う音がする。館内放送は無い。その所為で誰も事態を把握出来ていないようだ。重い体を起こしながら、私は事態を把握しようとドアの側で聞き耳を立てた。
 同僚達は叫びながら互いの状況を確認し合っていた。誰かが現状を大声で知らせていた。彼によると、隕石の衝突によって図書館のシステムの大部分がダウンしてしまったらしい。幸いにも生命活動に関するシステムは大方無事の様だが、それ以外のシステムに甚大な被害が出ているらしい。
 そのとき私の脳髄に語りかける声がした。
 今ならば、最奥部まで難なくたどり着けるのでは無いか?
 視界がくっきりと開け、全身に力が漲ってきた。意識が覚め、流れる様に最奥部へと至る方法を計算し出す。可能だ。私は確信を持って作戦の成功を導き出した。
 だが、作戦を実行すると言うことはこの図書館に住む全ての気のいい同僚達を裏切ることになる。何度よぎったか解らない躊躇いが再び私の前に立ち塞がろうとしていた。
 再び脳髄から声が語りかける。
 行け。汝の思うがままに。
 本当に同僚達に迷惑をかけてまで行ってもいいのか。
 行け。汝の思うがままに。
 私の生活の全てを捨ててまで行ってもいいのか。
 行け。汝の思うがままに。
 ならば行こう。
 私は戸棚に置いてあった保存食を平らげ腹ごしらえをすると、抽斗から電気銃とホルスター、電熱ナイフを鞘ごと、そしてピッキングツール一式を取り出して身に付けた。ドアの側で耳をそばだててみる。先程よりも喧噪は収まってるようだ。時折聞こえる声から、どうやら同僚達はシステムの復旧の為に駆り出されているらしい。
 私はホルスターとナイフの位置を外から見えにくいように調整すると、気取られぬよう表情や態度に気をつけながら最奥部への入り口へと歩みを進めた。途中何人かの同僚から声をかけられたが、反応を見るに不審がられた様子は無いようだ。彼らは親切にも簡潔に今の状況を説明してくれたので、今同僚達がどのような動きをしているのか知ることが出来た。原因不明の奇病に冒された挙句、裏切ろうとしている私に対してここまで仲間意識を持ってくれることに少し心が痛んだが、それでも私は行くと決めたのだ。
 最早私はすべきことのために行動することこそ第一になっていた。私は今、一生の内で一番晴れやかで生き生きしていると思える。私は図書館の維持管理をするシステムの一部から脱そうとしている。正不正の問題では無く、もっと根源的な、もっと本質的な所からこの衝動は生まれているのだろう。
 私は歩きながら、最奥部への入り口を探した。図面には不明瞭な形でしか記されていなかったが、ある程度予想は立てられる。私は行動理由がばれないよう細心の注意を払いながら一つ一つ確かめていった。
 そうして最後の候補であるオフィスの棚、例の完全な図書館の見取り図が納められていた棚に辿り着くことが出来た。オフィスには誰もいない。全員システムの復旧の為に出ているのだろう。私は棚をまさぐり、入り口を探し始めた。棚は非常に重く、私の力では動きそうに無い。であるならば、何らかの装置か鍵によって固定されているはずだ。
 一通り棚を調べてみたが、棚の開閉につながりそうな物は見つからなかった。あるとすれば図書館の完全な見取り図が納められていた抽斗だが。試しにその抽斗を引いてみる。システムがダウンしたことで電子錠が外れなくなっていた。ここまで来たら多少手荒な手でもやるしか無い。私は電熱ナイフを手にすると、抽斗の隙間にナイフの刃を捻じ込んだ。スイッチを入れ、ナイフを加熱する。これで電子錠を切断できるといいのだが。
 焦げ臭い匂いと共に電子錠の留め金が切断されたらしき軽くなった手応えが手に伝わる。続いて二つ目の電子錠に取りかかる。一回やったことで二回目は割とすんなり留め金を切断できた。二つの物理錠もピッキングで外すと、早速抽斗の中を隈無く調べ始めた。一見完全な見取り図以外は何も入っていないようだった。二重底になっているわけでも無い。ならば、と思い私は抽斗を棚から外し、抽斗が納められていた空間を調べ始めた。
 やはり、あった。一番奥に棚を操作するための物と思しきハンドルが手に触れる。それ以外には何も見当たらない。今は時間が惜しい。私はハンドルを回した。だが、棚が動く様子が無い。不審に思って棚を揺らしてみると、ガタガタと棚が動く音がする。今まで何をしてもびくともしなかったのに。私は棚に力を込めていろいろな方向に動かしてみた。引いてみたときに棚が手前に向かって動いた。そのまま棚を手前に引くと、棚の後ろには回廊が続いていた。明かりは灯っておらず、先が全く見えない。一切の整備が為されていない様で、黴と埃の臭いが嗅覚を刺激する。私はライトのスイッチを入れ、回廊へと歩き出した。当然、棚は元通りの位置に戻しておいた。
 回廊は地図の通りに一本道だった。回廊は左回りの螺旋の下り坂ばかりで、代わり映えしない景色がひたすら続いていた。警備システムもやられているのか、私の侵入に対しても攻撃してこないようだ。有り難いことであるが、こうも何も無いと逆に不安になってくる。私は緊張を切らさぬ様用心しながら回廊を進んでいった。
 回廊は中央の柱に繋がった螺旋状の坂で構成されていた。いや、四角形の筒を螺旋状に柱に巻き付けた様な形状といった方がいいだろうか。左下に曲がった道がただひたすら続いているだけだ。壁や床に継ぎ目は無く、装飾も無い、所々黴が生え、埃や砂が積もっている。どれだけ歩いても変化の無い光景に私の時間感覚と空間感覚は狂いかけていた。
 どれくらい降りていっただろうか、ようやく最下層、最奥部の扉まで辿り着くことが出来た。ここに来てようやく私は今まで呼吸を殺していたせいで息が苦しくなっていた事に気がついた。突然息が荒くなる。私は再度緊張を保つために深呼吸をした。黴と埃が私の呼吸器を侵食していく。濃い臭気の所為でむせ返ってしまい、大いに咳き込むことになった。私は大きく息を吸い込むこと無いよう気をつけながら呼吸を整えた。
 ようやく落ち着きを取り戻した私は意を決して、最奥部への扉に手をかけた。
 一本の構造色めいた紫色とも金色ともつかない奇妙な色彩の柱が立っていた。それ以外にこの部屋にある物は何も無かった。部屋は正七角形状の床に垂直に立つ壁、七角錐状に尖った天井をしている。壁や床の材質は回廊の石材と変わらない。
 私は呆気にとられた。これが神が発覚を恐れる秘密だと? どうも納得がいかない私は不規則な揺らめきを見せる柱を観察することにした。柱もまた、部屋と同様に七角柱と七角錐の先端で構成されていた。近づいてよく見ると、柱の表面は一切の凹凸が見られないほど滑らかな直線で構成されていた。しかし、構造色めいた揺らめきを見せる以上、薄膜あるいは微細且つ規則的な凹凸が存在することは見て取れる。おまけに相当微細な構造なのか、一瞬たりとて模様が変化しないことが無い。私の手に持つライトの光が動こうが動くまいが柱の揺らめきは絶えず直線や曲線を引いては消しを繰り返している。
 いや、待て。この揺らめきは奇妙だ。本来の構造色は薄膜や微細構造によって光が回折することで発生する現象の筈だ。だが、この柱は私が手に持ったライトで当てている光よりも強く輝いていないか? このライト以外にこの部屋に光源は無いはずなのに。
 試しに私はライトのスイッチを切ってみた。闇の中に紫と金の柱だけが見える。私の体ですら見えない程真っ暗な中で、柱だけがはっきりとその揺らめく色彩を露わにしている。
 あまりにも奇怪で、神秘的な光景であった。
 気づけば私の体は、柱の方へと動いていた。床を歩いているのか闇の中を泳いでいるのかも解らないまま、私は柱に手を伸ばしていた。
 火花が散った。紫と金の火花だ。
 だが痛みは感じない。代わりに脳髄がむず痒くなるような違和感を感じる。直接脳髄に干渉されているような気味の悪さを感じる。それでも私は柱から手を離すことが出来なかった。
 再び火花が散った。眼前に宇宙が広がった。
 今のは一体何だったのか? あれは、確かに宇宙の遠景だった。待て、私は直接宇宙を見たことが無いはずだ。文献中の絵図面で見たことはあるが、あの絵図面とは違った形をしていた。だがなぜ私はあのヴィジョンを宇宙だとわかった? 銀河という渦を巻いた星の塊や恒星系ですら無い、粗製乱雑な岩石と高温のガス塊だけの空間を何故私は宇宙と認識した?
 また火花が散った。神々が蠢いていた。
 あれが神々だと! あの悍ましい肉塊や形の無い悪意ある概念がか! 私が見たヴィジョンに写っていた全てが、グロテスクとナンセンスで埋め尽くされていたあの光景が、万聖殿だとでも言うのか! 
 火花が散った。火花が散った。火花が散った。
 私の中に、私の知らない知識が詰め込まれていく。脳髄のむず痒さは絶え間なく私を苛み続けるが、それ以上に神経に快楽物質でも出ているのか私は流し込まれる奇妙にして陰鬱な知識に歓喜の感情を覚えていた。
 この柱に刻まれていたのは宇宙開闢からの知識であった! それは神々の秘密、宇宙創成の秘密、そして我らが神たる名状しがたきハストゥールが何故この柱を盗み出し、この星に隠し、柱の上に図書館を建てたかについての秘密!
 私は柱に刻まれた全ての知識を流し込まれた。全てを理解出来た訳では無い。だがハストゥールの目的は理解できた。神は真なる宇宙の支配者になりたかったのだ。宇宙を創造した眠れる盲目の魔王を廃し、全ての時空に隣接する魔王の長子たる唯一の全者を廃し、全てを嘲笑い全てに悪意を振りまく這い寄る混沌を廃し、そして最大の競争相手であるゾスの大親分を廃し、この宇宙を掌握せんと企んでいたのだ。だが柱は神に知識を与えなかった。逆に矮小なる生命の保護に勤しむ物好きな神々によってこの星系に封印される羽目になった。だが神は柱を手放すことは無かった。いつの日か柱より知識を得んと、柱を解析する為の装置を組上げたのだ。それこそがこの図書館であり、司書とは装置の部品に過ぎなかったのだ。我々司書は命ある機械として作られた存在だった!
 気付けば私は笑っていた。笑うしか無いだろう。この肉体が、この意識が、全て神の都合による物だったとは! 円錐状の胴も、波打つ仮足も、九方に伸びる触腕も、極端に肥大化した脳髄も、三方向に向けられた複眼も、安穏たる日々に満足する本能も、荒れる事の無い奉仕的な感情も、知識の収集と管理に忠実な精神も、私が私であるという自意識さえも何もかも!
視界が落ち着きを取り戻した。火花はもう散らない。頭の中に流れ込んでくる情報はもう無い様だ。ようやっと私は体を動かすことが出来た。
 痛みが全身に走った。何かに貫かれたような熱を帯びた痛みを感じた。
 いや、私の体に何も起きていない、ただ私は、見られている。
 神だ、ハストゥールが私の存在を認識したのだ。私が柱から知識を得たことを知ったのだろう。明確な憎悪を持って私を睨み付けていた。先程の痛みはハストゥールの憎悪そのものだろう。もしその憎悪を直接向けられたとしたら。私の思考にあの混沌たる万聖殿が浮かんだ。直接見たわけでも無いのに、その悍ましさと偉大さは十分伝わっている。いや、情報だけだから見ていられるのかも知れない。もし直接目の当たりにしたら、どうなるのか私にはわからない。
 とにかく長居は無用だ。今すぐ図書館を脱出しなければ。私は再び回廊へと戻り、長い長い螺旋を駆け上っていった。
 一度下った道だからだろうか、行きよりも早く登れたような気がした。やがて入り口まで辿り着く。私は聞き耳を立て、隠し扉の向こうの様子を伺った。
 物音がする、それも相当数の。いつもなら認識出来ない様な細やかな音を私の耳は拾っていた。私はもっと音に意識を集中してみた。心臓の音が、呼吸の音が、電気銃を揺らす音が数多く聞こえる。
 まさか、私を待ち構えているのでは無いのだろうか。今私の手元にあるのは個人携行できる電気銃と電熱ナイフがそれぞれ一挺だけである。もし向こうに数十挺待ち構えていたとしたら、私に為す術は無いだろう。
 ここで私ははたと気付く。何故私はここまで小さな音まで拾える様になったのだろうか。今まで無音の環境にいたからだろうか。それとも柱の影響だろうか。もしそうだとしたら。
 私は脳髄に意識を集中させてみた。柱から受け取った知識にこの状況を打開できる情報があるかも知れない。私は図書館で本を探すように、必死に脳髄を駆け巡った。相当時間と体力を使ったと思われる。私はすっかりのぼせ上がっていた。だがそれに見合う成果は出せた様だ。
 私は再び聴覚に集中し、隠し扉の向こうの様子を窺った。随分長いこと待たされている所為で、ひそひそと会話が聞こえる様になっている。今度は視覚に集中してみる。徐々に隠し扉が薄くなっていき、向こうの様子が手に取る様に分かっていく。やはり扉の向こう側では電気銃を構えたかつての同僚達が待ち構えていた。だが相当長い時間拘束されている所為で集中力が切れかけている様だ。
 一つ、深呼吸をしてから私は全身に力が行き渡るように意識を巡らせた。慣れない所為か、なかなか上手く力を全身に伝える事が出来なかったが、コツが解るとあっという間に目標の状態まで達する事が出来た。準備は整った。目の前の元同僚達が気を緩めるタイミングを待つ。
 まだだ、まだだ、まだだ、今だ!
 私は隠し扉を突き破りながら、司書の肉体で出せる速度の三十倍はあろうかという速度で駆け抜けた。突風が舞い、オフィスはぐちゃぐちゃに掻き乱される。元同僚を、デスクを、備品を跳ね飛ばしながら私はそれら全てを置き去りにした。
 私は一直線に封鎖された図書館の門へと駆け抜けていく。途中何人もの元同僚を跳ね飛ばしながら、私は全力で走った。背後から電気銃の発砲音がする。だが今の私を打ち抜けるものか。高速で走る私を捉えるのは非常に困難だろうし、そもそも射撃訓練など殆どの司書が大してやっていないだろう。万が一当たっても、高速で走るために硬く、丈夫にした私の体を傷つけることは容易く無い筈だ。
 何もかもを置き去りにしながら私は図書館の門を捉えた。通れそうな箇所を視覚に集中して見つけ様とする。だが、相当強固な封印なのか、このままでは私の体が砕け散ってしまう確率の方が高そうだった。私は必死に出られそうな所を探した。もうすぐで門まで辿り着いてしまう。立ち止まれば袋叩きにされ、逃げ出す所では無くなる。生きるか死ぬかだ、必死になれ!
 門まで後数秒という所で、ようやく脱出方法を見つけた。門の脇に狭いが、僅かに封印が薄くなっている部分がある。あれに賭けるしか無い。私はあらん限りの力を振り絞って速度と肉体の強度を限界まで上げた。
 轟音と共に、痛みと爽快感が全身を包み込む。眼前には暗黒とぽつぽつと光る点で満ちあふれた空間が広がっている。静寂と超低温、超低圧が私を歓迎する。
 私は、図書館から脱出した。私は退屈から逃れた。そして私は自由を手に入れた。
 私の体は更に加速度を上げ、図書館を置き去りにする。時間を引き延ばし、空間を押し潰しながら、私は初めて見る宇宙に興奮を隠せなかった。思わず叫び倒しながら幾何学的な軌道を描く様に飛んでみたりもした。
 気分が高揚すればする程、肉体は硬く丈夫になり、加速度は虹色の光輪が見える位増大していく。神秘的な光景に私はしばし恍惚としていた。この光景を誰かと分かち合いたいとさえ思った。だが、私の周りには誰もいない。全て置いてきてしまった。今更ながらその事が悔やまれる。
 これほどまでに美しい光景を、驚異の体験を、誰とも共有する事が出来ない。その事が私の気分を一気に沈鬱にしてしまった。
 図書館にいた時の私は、退屈だったかも知れなかったが、それでも同僚達との会話を結構楽しんでいたものだ。読んだ本について、業務中の出来事について、私生活について。本当に何てことは無い会話だった。余りにもありふれていた単なる日常だった。それが今ではこんなにも恋しいとは! これから先私がたわいも無い会話を楽しめる相手が見付かる事はあるのだろうか。ずっと光速に近い速度で移動しているが、未だに生命の気配は無い。それどころか人工物さえ見当たらない。
 あれ程渇望していた自由が途端に酷くつまらない退屈なものに見えてきてしまった。だが私の体は止まらない。減速すること無く、惰性のまま亜高速で飛び続ける。
 このまま惰性のまま飛び続けて、枯れ果てても構わない。何かに激突して粉々になっても、恒星に飛び込んで焼き尽くされても、超重力天体に潰されてもそれはそれで面白い死に様になるだろう。滅多に無い死に様だ、誰も経験したことが無いだろう。せめて誰かが私の死を記録してくれればいいのだが。
 自嘲じみた考えに支配されたまま、私は飛び続ける。
 突然私は射貫かれた。
 再び、ハストゥールの殺意が私を捉えた。
 明らかにハストゥールは私を認識している。そして敵意を持って私に干渉しようとしてくるのが解った。
 私は複眼の一つを後方へと向けた。そこには、遠く五つの恒星系を隔てていながらもはっきりと解る程の存在感を備えた、何とも名状しがたい触手と鱗、牙や翼、鰭に尾、無数の体毛にゴムのようなつるつるの皮膚、花弁に貝殻、胞子嚢に触角、何が体を構成し、構成していないか全く解らないものがいた。
 あれこそがハストゥール、私の造物主であり、私を図書館に縛り付けていた神なるもの。
 突然私の肉体が減速し出す。私を後方へと引っ張る力がかかる。後方に複眼をやると、ハストゥールが恒星系二つ分まで迫ってきていた。ハストゥールはその腕とも触手とも枝ともつかぬ細長い器官を束ね、一点を指し、そこに超重力天体を生成していた。顎とも嘴とも、穴ともつかぬ部分を数十ヶ所開閉しながら私に迫ってきている。ハストゥールの目的は私を食らうことだ。重力で私を捉え、そのまま柱の知識ごと私を食らう気でいるのだ。
 冗談じゃ無い。私は神の為の料理では無い。知識を吸収するために予め下拵えされた訳じゃ無い。私の中に怒りと反骨心が沸くと共に、生への渇望が蘇ってきた。
 どうしたらこの状況を乗り切ることが出来るだろう。柱の知識の中に使えそうなものがないか、必死で脳髄をまさぐる。ハストゥールは重力で私との距離を確実に縮めてくる。残された時間は多くは無い。ぶっつけ本番でやるしか無い。柱よ! 私に生き延びる方法を示し給え!
 ハストゥールが恒星系の直径程まで迫ってきている。最早一刻の猶予も無い。だが、必死になればなる程アイデアが思い浮かばなくなる。その事で更に焦り、余計に脳髄が回らなくなる。私はただ前に行くことしか出来なかった。死と束縛への恐怖が私を染め上げ、ただただ逃げるだけにしてしまう。もう思考を働かせる余裕など無かった。折角の自由を満喫しきぬまま、終わりたくなど無い一心だった。
 飛べ!
 突然それだけが、私の脳髄に閃いた。
 飛べ!
 ハストゥールがもうすぐそこまで迫ってきている。
 飛べ!
 飛べばいいんだろう! もう飛ぶしか無いんだろう! 何をどうして何が飛ぶのか解らないが、とにかく飛ぶしか無い!
 飛べ! 飛べ! 飛べ!
 ただひたすらそれだけを念じていた。
 飛べ! 飛べ! 飛べ!
 目の前の虹色の光輪はその半径を狭めていく。
 飛べ! 飛べ! 飛べ!
 やがて、光輪は一つの円になる。
 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 
 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 
 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 飛べ! 


 飛んで、飛んで、飛んで、疲れ果てた私は加速する力も無く成り果てていた。周囲を気にする余裕も無い。ただ、今私の生死がどうなっているのかですらはっきりと認識できていなかった。暫く、全く動くこと無く私はただただ空間を漂っていた。その内、あれ程私を苛んでいたハストゥールの敵意が全く感じられなくなっている事に気が付いた。あたりを見渡してみるが、何処にもハストゥールは見当たらない。私は自分の体を確認してみる。脈があり、体温がある。どうやら私は生きているようだ。
 私はハストゥールから逃げ切った!
 私は生涯最大の歓喜の声を上げた!
 私以外に聞く者のいない歓喜を響かせながら、私は高揚した気分のまま星々の間を飛んでいく。願わくばこの素晴らしい恍惚とした精神状態を誰かと分かち合いたいものだ。果たしてそれが出来るようになるのは何時になるだろうか。
 それまでに私の精神が死んでいないことを願うばかりである。


 2021年3月24日、雑誌『Astronomy&Astrophysics』にて、ESA(欧州宇宙機関)の研究チームがヒヤデス星団が太陽の1000万倍近い質量を持つ未知の塊と衝突した形跡があるという研究を発表。星団と衝突した塊については発見出来ていないとし、その正体が暗黒物質のサブハローでは無いかと述べている。

#創作大賞2022

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