『笑顔の似合う人』(小説)


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電車が遠ざかる音に振り返った啓介は、懐かしい風景に、自分が目的地と反対の改札から出てしまったことに気が付いた。

引き返そうとして、ふと思い立って腕時計を見る。

約束の十時まで、まだ時間があった。

啓介は、通いなれていた道を真っ直ぐに歩き始めた。

持参した花束が少し邪魔だった。

舗装された道路の植え込みに、紫陽花が咲いている。

昨日降った雨の雫が、葉の上で朝の陽ざしに反射して、きらきらと輝いていた。


「ほー、今は紫陽花か」

大学生活の四年間、季節が変わり街路樹の主役が入れ替わると、小雪はいつも「ほー」と大げさに、しかし心から感心したようにため息をついた。

毎年、代り映えしない景色に、毎日、嬉しそうに「啓ちゃん、綺麗だね」と小雪は笑った。

少し歩くと、公園に出た。日曜日の公園では、少年たちがサッカーをして遊んでいた。

昨日の雨で少しぬかるんだ土の上を、少年たちは膝の下まで泥まみれになって走り回っている。

彼らの脇を通り抜け、啓介は公園の隅の少し湿っているベンチに腰掛けた。

なんの知識もなく選んだカサブランカの花束が、手の中でガサリと音を立てた。

大輪の花束の甘い香りが鼻孔を通って脳を刺激した。


啓介と小雪が出会ったのも、この公園だった。

高校三年生の冬。

合格発表の帰りだった。

雪と風の強い日の午後、誰もいない公園の真ん中に小雪が立っていた。

傘もささずに、たった一人で。

肩の上で切りそろえた柔らかい髪に雪が積もり、強い風にコートが激しくはためいていた。

唇をぎゅっと引き結んだ小さな彼女は、吹雪の中を背筋を伸ばして真っ直ぐに立っていた。

彼女は自分を見つめる啓介に気づくと、にっこりと笑顔を作り「やあ」と言った。寒さのせいか、声が震えていた。

「君、会場にいたよね。どうだった?」

笑う目の端が光っていた。啓介は小雪から視線をそらし、うつむいた。

「落ちたよ」

「あは、一緒だ」

小雪の泣き顔を見たのは、その一度だけだった。

笑いながら泣く人間を、啓介はこの時初めて見た。



「啓ちゃん、相談があるんだ」

大学四年の秋。このベンチで、頬を赤く染めた小雪が真っ直ぐに啓介を見つめて言った。


四年前に卒業した大学に寄るつもりだったが引き返し、花束を手に駅の反対側に向かう。

四年間通った道の反対側は、閑静な住宅街で、どこかよそよそしく感じた。


目的地につくと、すでに引っ越し業者のトラックがついていた。

呼び鈴を鳴らすと、長い髪を頭の上でまとめた小雪がドアを開けた。

「いらっしゃい、啓ちゃん、じゃなかった、お義兄さん」

幸福そうに笑う小雪に花束を渡し、その後ろにいる四つ年下の弟に、啓介は「結婚おめでとう」と笑顔を向けた。



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