裏庭表紙web用

《世界で一番幸せな猫》抜粋

 わお! と思った。なんて綺麗なんだろう。 こんなに美しい生き物がこの世にいるなんて、びっくりだ。

「すげえ綺麗だ。こんな綺麗な猫、見たことないや……」

「メヒタベルよ。ベルって呼んでるの。チンチラ猫で、もう十四歳。わたしと同じくらいお婆ちゃん」

 テーブルの上には真っ黒な細身の猫がいた。黒い毛並みがつやつやと光っていて、淡い黄緑の目をしている。黒猫はテーブルの端まで優雅に歩くと、ひらりと椅子の上に跳んだ。まるでしなやかさに足が生えているみたいだ。 足元には赤トラがいて、その目は真ん丸な二つの金貨だった。全体がごく薄いラヴェンダー色のシャム猫もいたし、まるでソックスを履いたみたいに足先だけ白い虎縞猫もいた。毛の長いの短いの、全身がけぶるような灰色で碧の目のヤツ、牛みたいに白黒ブチの、丸顔で三色の毛色の猫はしっぽがボンボンみたいに短かった。

 自分でも気づかないうちに、いつの間にか口元がほころんでいた。

 テルは、ペットを飼ったことがない。でも動物は好きだった。小学生のころ、クラスメイトの一人がむくむくした巻き毛のテリア犬を飼っていた。人懐こい可愛い犬で、遊びに行くといつも触らせてくれたのに、母が売春婦と知れるとその子の親はテルを家に招ぶことを禁止した。

 それで今度は何でもいいから自分でペットを飼いたいと言うと、母は動物はすぐ死ぬからと言って許してくれなかった。本当は、自宅でやっていた『商売』の邪魔だったからだろう。その母がいなくなって満十歳で養護施設に入れられてからはペットどころじゃなかった。自分が生きることで精一杯だったのだ。
 でもいま目の前にいる猫たちを見ていたら、動物を飼いたくてたまらなかった小学生の自分が猛然と思い出されてきた。こんなにたくさんの猫を間近に見たのは生まれて初めてだった。今まで一度も猫を撫でたり触ったりしたことはなかったけれど、どうしてか無性に触ってみたかった。あの素敵に綺麗な連中が本当に生きているのかどうか自分の手で触って確かめたいのだ。「すごいや……。何匹いるの」

「二十四匹よ。今のところはね」

「触っても平気……?」

「それはあの子たちに訊いて」

 ヘイゼルに腹を立てていたことは少しのあいだ忘れることにした。ゆっくりソファに腰を下ろし、恐る恐る手を伸ばす。ふわふわの毛にもうちょっとで指先が触れそうになった瞬間、巨大なチンチラ猫は意外な素早さでするりとソファを降りてしまった。

 なんだかひどくがっかりし、テルは逃げてしまったチンチラ猫を未練がましく眺めた。だけど、すぐ近くのテーブルの上にはまだ愛嬌のある顔をした三色の毛色の猫がいる。テルはチョッチョと舌を鳴らしながら恐る恐る三色猫に手を差し伸べてみた。だが三色猫は素知らぬふりでひらりと向かい側に飛び移ってしまった。

 クソッ。なんで触らせてくれないんだろう……。ちょっとでいいから触らせてくれればいいのにな。

 猫たちは部屋から逃げ出しはしないけれど、こちらから寄ればすっと離れてしまう。じらすみたいに一定の距離を置いて、それ以上は近寄らせてくれないのだ。

 あの連中に触れたら、きっとすごく幸せに違いない。でも、触れなくても見ているだけでじわじわと暖かい気持ちが沸いてくるのだ。 なんでなんだろう。いったいどうして毛皮に包まれたちっこい生き物を眺めるだけでこんな幸せな気分になってしまうんだろう。

 美しいからだろうか? だけど、白黒猫なんかは美しいと言うよりはマンガの猫みたいな面白い顔をしている。それでもやっぱり見ているだけで頬がゆるむのだ。もし、そいつが腹を空かせているのなら、今すぐ何だって買ってやりたい。もしもそいつが手から餌を食べてくれたら、どんなにか素敵だろう。

 ちょっと冷静になってみれば、これはすごくバカげたことだった。何をしてやったって、猫は何もお返ししてくれっこないのに。でも頭でそう判っていても、猫に触ってみたい、可愛がりたいという衝動には何の変化も起きなかった。

 まったく、どうしちまったんだろう——。

 今までずっとギブ&テイクで生きてきたというのに、こんなふわふわした毛皮を着た小さな生き物にメロメロになるなんて。

 色とりどりの猫たちは一匹ずつ全然違うのに、どの猫もそれぞれみんな美しく可愛らしかった。あんまり多くて目移りしてしまいそうだ。こんなにたくさんの猫がいて、ヘイゼルは全部を愛することが出来るんだろうか。やっぱり、この中には一番の猫がいるんだろうか。