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お金への執着 お金は私にとって母だった

「お金」にまつわる恨みつらみを吐き出すワーク。

お金に関する記憶をまずまとめよう!
そこからお金を擬人化して、「お金様」。
「お金様」を「人」とイメージして恨みつらみ吐き出していきます٩( 'ω' )و

↓↓↓

◯お金にまつわる記憶

幼い頃から、家にお金はない、と言われて育ってきた。
父はすぐお金を使ってしまうから、母は教育費のためにやりくりしていると。
だから私は、お金を家から出してはいけないのだと思った。
つまり、お金をどうにか家に留めることを考えないといけないと思った。

母はやりくりして、私たちのために教育費を捻出してくれている。
好きなものにすぐ使ってしまう弟は呆れられる。
年の離れた兄は、お小遣いで買ったものでも否定されている。
自然と私はお金を銀行に預け、それを褒められることで、正しいことだと思った。
お金は家か銀行になければいけない。

誕生日やクリスマスというイベントも、欲しいものを言えなくなった。
母が管理している予算内で母に選んでもらえば、私は怒られたり呆れられたりすることもない。
母の価値観に合わなくて、無駄金と思われることもない。

そうしてるうちに、お金に関する信頼は兄弟より私に向いた。
家のお金に関する情報を母は私に引き継ぐようになった。
ただ、私はお金にしっかりしているわけではない。
お金に興味がいかないように、無関心を装っているだけ。
だから、お金との付き合い方も管理の仕方もわかるわけがない。

家から離れ、自分で稼いだお金を着物に使ったことがある。大金である。
しかし、その着物に未だ袖を通したことがない。
今さら気づいたが、私は母に認めてもらえるものを選んで、ただお金が使いたかったのだ。

踏み込んで考えていくと、私が欲しいと思っても、一度母の価値観を通ってしまう。
母に認められるものを選ばないと買えないので、本当に欲しいものを買えない。
だからきっと、稼ぐこと自体に夢がないのだ。
稼いだところで、欲しいものは買えないのだから。

お金を使っていて一番充実感を感じるのが投資だ。
お金を増やす作業はゲームのようで楽しい。
ただ、リスキーなことまではできない。
そのため、持株を高値で手放し、それなりの金額になったのだ。

しかし、タイミングの悪いことに生きることに絶望し、母に対する嫌悪感も重なり、買い物依存的になった時期だった。
下手にお金があるゆえに、母への反抗心も相まって散財することが目的だったのかもしれない。
それで買ったのが、母が好むもの、というのが皮肉なものだ。

ザックリ、私のお金に対する記憶である。

◯擬人化した「お金様」

私にとってのお金様はなんなのだろうか。
母と同じでお金様を神格化している、という感覚はある。
お金様が家にいてくれると、神様が家にいるのと同じで家を守ってもらえる。
安心安全、幸せなのだ。

お金様が家からいなくなるのは、神様を捨てる行為だ。
罰当たりなのだ。

神様と引き換えにしても価値があるものを、選び抜かなくてはいけない。
そこに私が欲しいものは入らない。
例えば誰かを喜ばせられるもの。
子どもの将来に繋がるもの。
体によい食事。
私の時間や労働でまかなえるものなら、お金様に家にいてもらうことが正解。

いや、なんで?違うよね?
生活を豊かにしたり、心を豊かにしたり、「私が」価値あると感じたものを呼び寄せるのがお金様だよね?
確かに家にいないと不安になる。
でも、ずっと同じお金様にいてもらう必要なんてない。
私が欲しいのはお金様そのものじゃない。

お金様はお客様のようなものであって、大事にする必要はもちろんある。
でも、我が家に何かしらのメリットを置いてそのうちお帰りになられるのが、お金様。

我が家にずっといることで何か幸せが訪れる福の神ではない。
強いていうなら、我が家に一定数いてもらうことで、突発的な危険から守ってくれる警備員的な役割はある。

そう考えると、私が本当に欲しいものを持ってきてくれないお客様もといお金様の来訪を、私が心から接待もとい働くことができないのは当然だ。
母の息のかかった、教育的指導という支配や監視を含むお金様。
それを自ら招くはずがない。

生活に必要 + 警備員的役割を期待して、夫の連れて帰ってきてくれるお金様には敬意を表する。
しかしそれだけなのだ。
多少不便だとしても、
お金様への接待というストレス
× 母の支配や監視というストレス
を避けるためなら私は自らお金様を遠ざける。

そうか、私にとって
お金様 = 母の目
なのだ。

そしてもうひとつ。
お金様への接待(働くこと)はストレスだ
という思い込みもある。
これは母の苦労や我慢にこそ価値がある、という教育の賜物だ。

きっとそれだけではない。
もちろん何かを本気でするにあたって、ストレスがないということはあり得ないと思う。
しかし、そこにお金様自体は直接関係ない。

私が感じるであろうストレスの原因は
・人間関係
・責任感
・時間の束縛
この辺りだろう。

お金様が関わることで、この責任感がグッと重くなる。
しかしよく考えてみたら、私は「働かなければ食べていけない」レベルでの話をしていない。
それは夫が担ってくれている。
そこにプラスαのお金が入れば嬉しい。

一番の目的は、
母や妻以外の個としての自己肯定感を、
社会的地位を、
存在意義を、
私は欲しいのだ。
そこにお金様が必要なのだ。

だから、私は好きなことでお金を稼ぐことが目標だ。
趣味の延長で、お金を得られるクオリティに仕上げる。
そこに生じる責任はお金とはまた別の話、おそらく自信の話だ。
まずは趣味を極めることが目標だ。

そしてお金様を得る前に、私は何かを欲しがる必要がある。
自分が働いてでも欲しい何か。
何だろう、何だろう…そうか、まず私は私の欲しいものがパッと浮かばないのが問題かもしれない。

あ、でも、私は夫や友人や子どもたちにプレゼントをしてみたい。
家庭に入ってから、夫のお金と思うとプレゼントができなかった。
そうか、私はまず大事な人にお金を使いたいのか。
そこを通過しないと自分に使えないのかもしれない。

ああそうか。
無駄なものにお金を使ってみたい。
経験のないものを試してみる。
使ってみてからしか価値のわからないもの。
経験自体に価値のあるもの。
かつて無駄と言われそうで避けていたもの。

お金様は結局私にとって母だったのだ。
これでお金様をまっさらな目で見れる準備ができたかな?

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