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ウォーターフロントのTバック

先日、クルーザーで行われたパーティに参加した。
晴海埠頭から出港した船内ではルイナールが振舞われ、有名な日本料理店の仕出しがあっ
て、バーカウンターでは寿司職人がせっせと寿司を握っていた。船は羽田空港に近づき、私
たちはクルーザーのデッキで頭上を飛ぶ飛行機を見上げながら、シャンパーニュやワインを
楽しんだ。
着飾った男女がにこやかな表情で探り合うような会話をしていて、なんだかバブルの頃に
よく見た景色だなあ、となつかしくなった。あの頃、いったいいくつこんな夜があっただろ
うか。

飲むでもなくグラスをもてあそんでいると、友人が一人の女性を私のところに連れてきた。
「この方、リリちゃんが恩人なんだそうだよ」

若くもないが中年でもない、つまりまさに女盛りの美しい女性が深々と頭を下げた。胸の
辺りまで伸びた髪はサラサラで、サンドベージュのワンピースがよく似合っている。しかし、
まったく記憶にない。私は正直にいった。
「ごめんなさい。どこかでお会いしてましたっけ?」
私は、名前や肩書き&経歴は忘れやすいけれど、顔形の記憶には自信がある。しかし、彼
女の顔形はデータにはなかった。
「二十年以上も前に一度お会いしただけですから、仕方ないですよね。お目にかかったのは
芝浦です」
「芝浦?」
「はい。『オー・バー』のオープニングで」 「オー・バー」のオープニングという単語で、私の記憶が一気によみがえった。ああ、あの 時の! あの子か!

「オー・バー」とは「O’ BAR2218」のこと。「インクスティック」の跡地にできた大箱ディスコだ。 寂れた倉庫街だった芝浦はバブルに突入するやいなや、時代に目をつけられ、「タンゴ」 という運河沿いのレストランや「インクスティック芝浦ファクトリー」というライブハウス などができて、「ウォーターフロント」と呼ばれ始めた。シーズンスポーツ・サークルの学 生が大きな顔をしている六本木なんかとは違う、エッジの利いた業界人の溜まり場として一 気に熱を帯びたのだ。業界人とは、広告とか出版とか音楽とかファッションといった類いの 人で、彼らがかっこいい種類の大人たちとしてもてはやされていた。なーんてわかったよう なことを書いたけれど、「ウォーターフロント」という呼び方も、しょせんは空間プロデュ ーサーがNYから見つけてきたものだったんだけれどね。 そんな芝浦熱を決定的にしたのはかの「GOLD」で、それはまた別に書くとして、はし りだったのが「インクスティック芝浦ファクトリー」である。インクスティックも時代の荒 波には勝てず数年後には閉店し、その跡地にできたのが「オー・バー」だった。 オープニング・レセプションがあった夜、代理店の男の子たちと西麻布で飲んでいた。こ ちらもオープンしたばかりのおでん屋だった。おでん屋といっても、あの頃よく見かけた
「日本料理のジャンルですが、都会的におしゃれっぽく空間をプロデュースしてみました」 といった店。つまり全然おしゃれじゃない。私たちの間では、この類は「いかにも系」なん て呼ばれていた。いかにも系で断トツ人気だったのは......などといちいち店の説明を挟むと、 話がなかなか進まない。昔話って大変だなあ。
味のぼんやりしたおでんを食べていると、先輩の業界人から携帯電話に電話があった。ち
なみに、この頃はまだ「携帯電話」は通話代がバカ高くて、チャラチャラしている人(含、
私)がこけおどしに使う道具だった。
「アマカスにこんなこと頼むのは舌を嚙み切りたいぐらいみっともなくて悔しいんだけれど、
今、芝浦の『オー・バー』のオープニング・レセプションに来てる。すごい人だし、招待状
もないし、中に入れないん......」
言葉をさえぎって、私は答えた。 「わかりました。私も、この後そっちに行こうと思ってたんです。そこで待っててくださ い」 すぐさま会計をしてもらいタクシーを拾った。支払いは代理店の誰かが済ませた。誰だっ たかは忘れた。西麻布の交差点はタクシー激戦区だが、まだ九時前だったので、そう待たず に捕まった。 行こうと思っていた、というのは噓。迷っていた。エッジィで最先端の空気が流れていた はずの芝浦がどんどんダサくなっていくのを見届けたいような、見たくないような気持ちだ った。 しかし、すごい人だと聞き、俄然行く気になった。私も招待状なんか持っていなかったけれど、1990年の私に顔パスで入れないディスコはなかった。 三分も探せば誰かしらコネクションのある人が見つかる。タクシーの中から一本電話をし て、「オー・バー」の入り口で私たちを出迎えてくれるように頼んだ。 人でごった返す入り口で、先輩たちは所在なく立っていた。スーツ姿のスタッフらしき人 物に先ほど教わった名前を告げ、私たちは行列を横目に店内に入った。まるで呪文。私はこ んな呪文をいくつも持っていた。 中はもっとごった返していて、熱気が渦巻いていた。芝浦もまだ捨てたもんじゃないのか、 もう大衆のものになっちゃったのか、私は各フロアを回りながら自問自答し続けた。自分も れっきとした大衆だからこそ、大衆から抜け駆けしたくて仕方がなかったのだ。当時はそれ に気がついていなかった。 大勢で店内を練り歩いた。その間、誰かが若い女の子二人組に声をかけ、さらに大人数に なり、時々はぐれたり再会したりしながら、さらに練り歩いた。 何階だったかは忘れてしまったが、あるフロアにカプセルマシンがあった。コインを入れ るとカプセルが出てくる機械だ。中身はキーホルダーでもおみくじでもなく、Tバックのシ ョーツ。壁には、見本のカラフルなTバックが大量に飾られていて、ないはずのお尻が見え そうなぐらいだった。
若い女の子の一人がいった。
「す、すごい......、こんな下着、はいたことないです」
もう一人もいった。
「男性にびっくりされちゃいそう」
私は上から目線で語った。
「あのねえ、私たち、たまに身体にぴったりした服を着るでしょう。そういう時、下着の線
が出るのってダサいじゃん。だからTバックをはくの。Tバックなら、線が出ないでしょ。
男に喜ばれたりひかれたりするためじゃないの」
「そうなんですか......」
二人はそういって、自分たちのヒップを気にし始めた。線が出ていないかどうか、確認し
たのだろう。
すると、おじさんたち(若い女の子からしたら、私が引き連れていた男子は全員おじさん
です)が、色めきたった。
「もしよかったら、買ってあげましょうか?」
女の子たちは顔を見合わせた。おじさんたちはにやにやしている。私はまたもや出しゃば
った。
「ダメダメ。こういうの、恋人でもない男の人に買わせるとロクなことないから。私が買っ たげる」 Tバックを買わせてロクでもない目にあった経験はないけれど、そんな言葉が口をついて 出た。財布から五百円玉を取り出して、カプセルマシンに入れた。「いかにも系」の会計の 時もタクシーを降りる時も、一切財布には手をかけなかったというのにね。出てきたのは薄 暗い空間でもくっきりとわかる黄緑色のTバックだった。
クルーザーで再会したのは、そのうちの一人である。彼女は、その後、芝浦にもディスコ
にも行かなくなって、結婚して出産して、そして離婚したという。
「あの時、リリコさんに買ってもらわなかったら、今頃私、○ニクロの下着はいてました」
「私も少しは役に立ったんだ。よかった」
私がその日はいていたのは、○ニクロのスポーツショーツだったけれど、そのことは黙っ
ておいた。

私たちは再会を祝して、乾杯をした。船上からは芝浦の灯りがとても近くに見えた。


*こちらの記事は『バブル、盆に返らず』からの一部抜粋です。全文を読みたい方は、よろしかったら本でどうぞ。あの時代を楽しんいただけると思います。 



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