海とクラゲ
赤い星を見つけた。あの人に教えて貰った歌の中に星が出てきたからふと見上げた空に、きらきらと揺れていた。
足を止めて見上げていると、車のクラクションが鳴った。今立っているのは歩道だから、わたしじゃないはず。気にとめずそのまま見上げ続ける。
「おい、引くぞ!」
はっとして目をやると、にやついた男がこちらを見ている。たっちゃんだ。
「またぼけーっとして。拉致されちまうぞ」
たっちゃんはあまり清潔感が無い。髪はぼさぼさでひげもちょっと生えている。こんな風なのに仕事はアパレル系と言っていた。おしゃれは昔から良く分からない。
「じゃあ乗っけて」
たっちゃんの車はオンボロだけど左ハンドルだ。こだわりの車らしく維持費が馬鹿にならないと前に言っていた。だったら乗り換えたら良いのにと言ったらうるせえと怒られた。
「たばこくさーい」
「うるせえ」
ほら、また言った。たっちゃんはすぐ怒る。でも本当は優しいと知っている。あの曲を流したかったのにオンボロ君にはラジオしか付いていない。その前に、曲名を思い出せない。
「ねぇたっちゃん、あの曲なんだっけ?星とお砂糖の船が出てくるやつ」
「なんだそれ、メルヘン野郎だな」
「だだだだだだだだっ!ってドラムで始まるやつ」
「それより引っ越したんだよな。家どっち?」
知っているかと思ったのに。メロディーも所々しか分からない。鼻歌で何となく歌って聞かせてみるけど、聞く気があまりないみたいだ。新しい家の方向を告げる前に車が動き出す。窓を開けて顔を出す。夜の風は気持ち良い。昼間のそれよりも透き通っている様に感じる。
「なぁ」
たっちゃんはたばこを吸っている。片手で運転しながらコーヒーも飲んでいる。器用だなぁ。
「何で引っ越したの?」
わたしの家にたっちゃんは来たことが無かった。送ってくれたことは何度かあって、その度お茶でもと誘ってみたが必ず断られた。わたしはたっちゃんと何かしたかったわけでは無くてただ言葉通りお茶をご馳走したかっただけなのだけれど、たっちゃんはきっと違う意味に取っていたのかも知れない。それが常識という物なのだろう。たっちゃんは、意外と真っ当な男の人なのだ。
「なんとなくー?飽きちゃったのかも」
「家に?」
「そうそう」
「ぼけーっとしてる癖に飽き性なんて生き辛えなぁ」
少し前に恋人と別れた。とてもとても、好きな人。多分今でも。お互いそうだと思いたいけれど実際の所は分からないし、案外と彼はすっきりとした心情で居るのかも知れない。わたしは耐えられなかった。彼と過ごした時間の詰まった部屋に居られなかった。部屋のあちこちに彼の痕跡があって、彼と一緒に過ごした空気がまだそこに停滞している様に感じられた。
車はどんどんと進んで、わたしのまっさらで何の記憶も持っていない新しい部屋から遠ざかる。それをたっちゃんに告げないのは逃避だ。どんな場所に居ても彼の事を考えてしまう。誰かと一緒に居たい。たっちゃんは優しいから甘えている。分かっている、こんな風にしてはいけないのだ。
「わたしのお家、」
「おれさ、海になりたいんだよね」
「え?」
たっちゃんは優しいし、とても賢い。だから何の脈絡も無い話をし始めることはとても珍しい。わたしと違って頭を使って生きている。
「海ってさ、ずっとあるじゃん」
「うん、そうね」
「でもずっと同じ水がそこにある訳じゃ無くて絶えず動いてて入れ替わってる。けど、ずーっと同じ場所に海として存在してるじゃんか。そんで、でかくて安心感がある感じ。拒絶されないだろ、海に」
「そういう人になりたいの?」
何だか不思議だ。抽象的な話をするのは大抵いつもわたしなのに。何かあったのだろうか、少し心配になる。たっちゃんのことは好きだ。元気で幸せで居て欲しい。
「うん、あなたにとってね。他の奴はまぁ、何でもいいけどさ」
前だけを見てこちらに目をやらない。たばこの煙が流れてくる。髪の毛に匂いが付いてしまいそうだ。
「別にあなたが何を考えていようがどうでもいいけど、おれは変わらずに居たいんだよ」
「…あ、」
「と言うわけで今から海に行きます」
わたしの言葉にならない言葉を遮ってたっちゃんが言った。頭がこんがらがって上手く考えがまとまらないけれど、たっちゃんは相変わらずこちらを見ずに車を進め続ける。
海は好きだ。ゆらゆらと揺れる波は見ていると確かに安心する。その感覚はたっちゃんと共有できるかも知れない。
「海、いいね。じゃあわたしはクラゲが好き」
「その心は」
「地に足付いてない感じ」
ハンドルを右に切りながら笑っている。
ついたら、ふたりで海を見よう。お酒は我慢して、ジンジャエールをコンビニで買ってふたりで半分こしよう。諸々を考えるのはそれからだ。
暑くなり切らない季節に飲む炭酸が好きだと、たっちゃんに教えてあげなくては。
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