ノート

黒い革張りのノートが鞄に入っている。何用でも無いただのノートだ。忘れたくないことを書くときもあれば何でも無いメモをするときもある。2cm位の厚さで少し重いが、どこへ行くにも鞄に入れて出かけるのが癖になっている。このノートは1代目では無い。今までも何冊かこんなノートがあったが、最後まで使い切ったことが無い。

「じゃあ明日行く?」

隣を歩く彼が言う。思考にのまれて目の前の会話を疎かにしてしまうことが昔から良くある。何の話だったかな。

「あした、、はなんもないよ」

じゃあそうしよ、と彼は言う。趣味の悪いスカジャンを着て寒いのか肩をすくめながら歩いている。あそこの雑貨屋にわたしの好きそうなマグカップがあったとか久しぶりに会った友達がどうだったとか、そんなことを取り留めなく話している。わたしは短い相槌を返す。彼は良く喋る。話すことは大切なコミュニケーションだと彼をみていると納得する。何を考えているか、物事をどう捉えるのか。相手のことを分かろうと躍起になったりしなくても、彼のことが見えてくる。

「どう思う?」

まただ。しまった。

「うーん」

彼を見るとこちらを見ていた。曖昧な笑みを返すと口を一文字に結んで睨んで来る。

「まーた、あなたはなぁ」

「んー、なんだって?」

あなた、と彼が言うのもわりと好きだ。
彼が怒ったところを1度だけ見た事がある。彼の友達が間違いを犯していると、彼が感じたときだった。電話口で口調を荒げていた。その様が珍しくてつい聞き耳を立ててしまったのだけど、その怒りの根源は友達を思う気持ちなのだなと聞いていて思った。そういえば、あの時もノートに何か書いた気がする。何だっただろう。

彼はまた恐らくさっきと同じ話をしてくれている。部屋のカーテンを替えたいらしい。寒色系が部屋に合うのではと伝えるが、本当は何でも良い。彼の部屋なのだから彼が欲しいものを買えば良いと思う。だけどそう伝えると何も考えていないように捉えられしまう事があると知っているので、好きなものを伝える。わたしがそうしている事を彼も知っているから、結局意味なんて無いのかも知れない。

「…………」

珍しく無言になったので不思議に思って彼を見ると、驚いたような呆れたような変な顔をしている。

「あなた、どこから聞いてなかったの?」

「ご、ごめんなさい」

呆れたように笑ったけど、続きはもう教えてくれない様だ。かわりに手を繋いだ。少しだけ彼の歩調の方が早くてわたしは一歩後ろに下がっていく。彼の顔が見えなくなっちゃうなと思った瞬間に彼が立ち止まって、振り返る。

「だからさ、一緒に住もうよ」

指輪は車に置いて来ちゃったんだけど、といつもと何も変わらない口調で言う。

「俺のカーテンじゃなくて、2人のカーテンの話だよ」

わたしは彼のこういう所が好きでたまらないんだなと思った。帰ったらこれもノートに書かなくちゃ。

「…あ!」

「うん、嫌なら大丈夫だよ」

彼はまた手を繋いだまま歩き出す。だったらスモークブルーが良いと伝えて手を握る。

あの日、ノートに何を書いたか思い出した。
明日、買うものも覚え書きしなくては。

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