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せんがわ劇場演劇コンクールの講評の言葉は批評の言葉なのか

はじめに

宮崎はムニとして第11回せんがわ劇場演劇コンクールに参加しました。審査結果に関しての異論は全くありませんが、先日出た講評の一部表現に関しての違和感があり、その違和感は「これは本当に批評の言葉なのか」という違和感だということに至りました。審査員の講評に関しては参加団体としては基本受け止めるスタンスなのですが、講評が批評の側面を含むかと思うので、それが批評の言葉としてどうなのかという点について、ネットに全文アップされているというのもあり、感じた違和感について語ることはしてもよいことなのではないかと思ってこの記事を書いています。

講評は以下のサイトから読むことができます。

ムニの講評の中で気になった言葉

わたしが気になった箇所は特に西尾佳織さんの講評の言葉です。

審査会では「村上春樹の小説を読んだ時に感じる『なぜこの人がモテる?』というのと同じ感じを、この作品世界の女性に感じました」と言ったのですが、他人に対して薄い。この人に対して登場人物の男の人が好意をもっていくという流れに、私は説得されませんでした。(ム二「真昼森を抜ける」西尾佳織講評)

この「村上春樹の小説を読んだ時に感じる『なぜこの人がモテる?』というのと同じ感じを、この作品世界の女性に感じました」は審査会での様子を詳細に伝えているものの、「講評」として本当に必要だったのか疑問です。女性表象の受け取り方に関しての説明だとしてもあまりにも個人的で他者に伝える言葉として雑ではないかと思うのです。女性表象へのすごく理不尽な揶揄に感じました。西尾さんが女性のキャラクターに説得されなかったという点に関しては講評だと捉えます。女性表象の例えに関しての発言がわたしが講評の中で最も違和感を感じた点でした。

台本にも上演にもきらめきを感じたのですが、観客は優しい友達ではないので、「どちらでもいい」みたいなことが沢山あると、つくっている側が意図していない方にどんどん作品と観客の関係が進んでいってしまうかもしれません。(ム二「真昼森を抜ける」西尾佳織講評)

「観客は優しい友達ではないので」は批評の言語でしょうか。せんがわ演劇コンクールの講評がアーティスト・観客・市民審査員・映像で作品を観たみなさん・演劇をはじめて知る人に対して、インターネットで無料で公開されている・全員に開かれているということを意識して、観客とアーティストの関係が緊張感のあるものでならなければならないことを伝える言葉として選ばれていたとしても、疑問が残ります。わたしは切実な講評として受け取ることができませんでした。

他の団体の講評で気になった言葉

他の団体に対して余計なお世話だよとなる可能性もあるので、特に気になった言葉を挙げます。

なぜ私はこれに立ち会わないといけないんだ? 観客が立ち会うってことを今、舞台上の人たちはどう感じ続けているんだ?(感じてないの?)と思いました。「やりたいことがないならやらなくてよい」という言葉が何度も浮かびました。(劇団灰ホトラ「列と野鳥」西尾佳織講評)

連続した疑問の投げかけは、答えが決まっているのに投げかけている言葉だと受け取られてもいい可能性があるのではないかと感じます。

つまり考えとしても、気持ちとしても、30~40 分の中だけでは変化は起きにくく、観客側の気持ちも変化があまり起きなかった作品だなと思いました。一方で、見終わった後には、“あっ一番色んな事をしゃべれる作品だな”と感じました。もちろんたくさん敵も作るような作品でしょうし、そういう意味ではものすごく勇気をもってやってらっしゃるなと気持ちは見ていて思いました。とにかく個性的でしたね。全く見たことのないタイプで、すごく不思議でシュールな作品でした。(劇団灰ホトラ「列と野鳥」ムーチョ村松講評)

特に「“あっ一番色んな事をしゃべれる作品だな”と感じました。」「とにかく個性的でしたね。全く見たことのないタイプで、すごく不思議でシュールな作品でした。」全体の文脈から捉えても皮肉のように受け取られかねないと感じてしまいます。

この講評はどこに向かって書かれているのか

先程引用箇所の追記で書いたように、せんがわ演劇コンクールの講評はアーティスト・観客・市民審査員・映像で作品を観たみなさん・演劇をはじめて知る人に対して、インターネットで無料で公開されているため、開かれた言葉として書かれている可能性があります。

ただ、それが「批評の言葉」として書かれているのかに関してわたし個人として疑問が残る点もあったので、この文章を書きました。もちろん、審査員が思う「批評の言葉」がそれぞれあることは前提として、そのリスペクトの上で、です。

しかし、例えば「演技」に関しての話は具体的に指摘しないと、演技を頑張った方がいいという全体を否定することになりかねないのではないかなど他にも思うことがありました。

講評の言葉を引き出した要因は参加者の作品で気になってしまった点があったという点に尽きると思うのですが、書かれた言葉自体についての違和感をここに書いた次第です。


演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。