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モヤモヤの蓄積が決定的になった時

運動をしたかったので、加賀田くんとサッカーをして遊んだ。この世の中はシラフで生きていくには辛すぎる世界だと「ユーフォリア」というドラマを観て思った。

昨年ごろから演劇でも、セクシャルマイノリティの人物が登場する作品が増えた。レズビアンの人物が差別言葉の「レズ」を自称に使っていたり、登場人物が何かを背負わされた時にセクシャルマイノリティの人物がよりひどい、より背負わされる立場になぜか置かれていたり、バイセクシャルだという理由で卑下されたり、なぜこうもひどい目に遭う描かれ方ばかりなのかということが気にかかってて、現時点で、日本語で書かれた戯曲のどの作品にもあまり納得できていないし、セクシャルマイノリティの人物が登場する作品の場合の多くは客席に居てつらいと思うことの方が多い。自分が演出のみを行う機会に、付き合っている付き合っていない関係の性別が明示されていないものに対して作者に、「性別に指定はありますか」と聞いたら、指定はしていないと言われた。普遍性を推し進めるほど社会は容認しているんだろうか。普遍性という名の下になかったことに簡単にされてしまえることが死ぬほど怖い。その時、その作品を演出することが私はあまり平常心でできなかった。

時には、作品には普遍性が必要でセクシャルマイノリティの人物が物語の中にいるということが大事で、作品が面白いかどうかが大事というような意見も言われることもあったが、「普遍的」「物語」という歯車に巻き込まれたくないと心から思った。とにかく2021年セクシャルマイノリティが登場する演劇はわたしにとってとてもつらいものが多かった。どうしてこの人物たちはレズビアンである必要があるのか、に納得されたことが一度もない。

あなたが普遍的、普遍性と言うときの「普遍」ってなんでしょうか。今回の作品を執筆している息抜き的にこの文章を書いているけれど、個人性をガチでやりつづければそれは普遍性に向かうことに逆説的になる、ということを書くモチベーションにしている。一番この物語が必要なのは私なのかもしれないと思うことがある。

セクシャルマイノリティが登場する演劇だけじゃなく、世の中それ自体が地獄。そしてわたしはこんな風に書くことじゃなくて、台本の中で手を動かすことでしか救われない。死にたい毎日の中のフィクション。





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