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演技のまわり道

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演技ということがわからなくて、2019年から書き始めました。演技や戯曲を書く中での問いや、影響を受けたものについての雑談noteです。
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2019年1月の記事一覧

聞く身体

舞台の上で俳優は「話す」ことができる。話すことができる状態をなぜ維持することができるか、発話が可能であるということに根拠があったほうがいいように思った。例えば舞台の上でなくても、誰かに話をする時、存在(聞いてくれる人の存在)があるから喋れるということがある。友達がいることで、おしゃべりの可能性が生まれる。「聞いてくれる身体があるから、話すことができる」を仮定とするとき、いくつかの実験可能性が生まれる。 ① 聞く(聞いてくれる)身体とはなにか 聞いてくれている人がいるから、

容れ物システム

◇容れ物システムについて 文字があるから、発話することができるというごくシンプルなことが思い浮かんだ。小学生の国語の授業で、一人ひとりが交代に一文ずつ本読みをしていくという経験がある。はじめてそのテクストに当たるときには、たどたどしかった本読みが、音読の宿題を経るうちにだんだん流暢なものになってくる。けれど注目したいのは、はじめてその文にあたるときのことである。文字を読むことを覚えたてのとき、人はどのように文字を読み、声に出すのだろうか。文字を追いながら読むということは、そ

「待つ」行為としての「聞く」

「待つ」という行為がある。待ち続ける人がいるために、人は話すことができるのではないか。待ってくれているということは、ずっと聞いてくれている人がいるということではないか。聞く(待ってくれている)身体があるために、わたしは話すことができる。演劇で話そうとするとき、聞いてくれている人とは誰か。また「聞く」とはどのような行為を言うのだろうか。 「聞く」ことを一度定義したい。聞く状態とは、相手の話を一度立ち止まり耳をそばだて、話を「わたしの身体」の中に浸透させる状態を言う。浸透させてい

「歪み」について

演劇の中間の状態はストーリー(虚構)と舞台上の俳優の身体(今・現実)との組み合わせであると仮説を立てる。 ストーリーの中で登場人物が死んでも、それを演じている俳優が死ぬということはない。逆に、「いる」ということが「いない」もしくは、「いない」ことが「いる」ことを通して舞台上にあるとも言えるだろう。これを「歪み」と呼びたい。さまざまな「歪み」の知覚を掲示していく中で、「見る」「見られる」の関係を再定義することはできないか。 柳田国男『遠野物語』のなかに、「裾にて炭取にさはりし