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無条件に愛される。

今日は子育てのお話。

無条件で愛すことの難しさ。

親は無条件に子どもを愛する、なんて私には困難で、愛してはいるけどこうなったらな、ああなったらなと言う願いは消えない。もっと一人で遊んでくれたらな、お友達に優しくできたらな、なんて想像する日も少なくない。

運動会では一番いなって欲しいし、髪の毛染めたり、ピアス開けたりはしないで欲しい。大人になったらこうなって欲しい、大学には言って欲しい、何歳までには結婚して、孫の顔が見たい。未来予想図は自由で、その分たくさんの希望を含んでいて、希望を含んでいるからこそ、落胆も増えていってしまう。

元気に生まれてきてくれれば良い、そう思っていたはずなのに、生まれてみれば、そうはいかなくなる。もっと眠ってよ、笑ってよ、今うんちしないでよ。そんな些細なことからどんどん増えていく。

愛してる、なんて言葉は都合がいい。愛があれば許されるわけでもない、何がもらえるわけでもない。でも愛してるか、人は問う。でも子どもは問わない。でも親は問う。

条件付きで愛されることの息苦しさ。

条件付きで愛されることは、嫌われることより心を蝕んでいく。これがなくなったら、私は愛されないんだ、これを守り抜かなくちゃ、なくなったらどうしよう。いっそなくしてしまえばこの息苦しさから解放されるんじゃないか。そんなふうに思うことだってある。

条件を付けられることが当たり前で、だから条件をつけることが当たり前になっているのかもしれない。愛されるには理由が必要で、条件が必要で、でも本当に必要なのは「あなた」である、それだけなのに。

条件がなく愛されるなんて今までされたことがなくて、自分が生きていけない存在なんて今までいなくて、でもそれがたまらなく息苦しくなる時がある。だってその愛情に応えるって私にできるか分からないから。

なくなっても当たり前。

無条件で愛されてるのは親の方だとよく思う。ご飯がレトルトでも、部屋が散らかってても、太ってたって、忘れ物したって、テレビ見せてほっといたって子どもからの愛情は無くならない。お母さんを愛すことに条件はない。

そんな愛情だって、いつかなくなる日が来る。それを知っておかなきゃいけない、愛されてるのは自分の方で、いつかは親なんていなくても生きていける、そう言われる日がきっと来る。きっとその頃子どもの偉大さに気づく。

でもその時、そこまで育てた自分の偉大さに、自分が気づくと良いなって思う。

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