その街の片隅には小さな廃墟があって、崩れ落ちそうなコンクリートの壁に囲まれた奇妙な空間は、ギリシアの遺跡を思わせる美しさであった。かつてそこにどんな建物が建っていたのか人々は憶えていない。今はたびたび旅芸人がやってきては、その灰色の空間を舞台として利用していた。少年は、毎日そこを通りかかっては、物珍しい芸人がやってきてはいないか、と心を弾ませた。誰もいなくても彼はそこに留まり、子どもらしい空想をして時をつぶしていた。

 ある日少年が廃墟に腰かけていると、赤と黒の衣装を身に纏ったピエロが音もなく舞台に現れた。少年は驚いて彼を見つめた。どこからか美しい音楽が流れてきて、ピエロはまず、パントマイムを始めた。彼は、見えない壁の中に閉じ込められていた。白塗りの顔は表情を変えず、彼は指先の繊細な動きだけで世界を組み立てていった。それからピエロは身体をくねらせ、哀しいダンスをした。
 少年が食い入るように見つめていると、ピエロはどこからともなく金貨をとりだして、少年の方へ、天高く投げた。それは空中で一瞬光り、ピエロが指をはじいた瞬間に小鳥に変わった。
 少年は心から感動して、いつまでも拍手をやめなかった。お辞儀をするピエロに駆け寄って「僕を弟子にしてほしい」と言った。
 するとピエロは笑い声をあげた。
「君のような瞳の男の子には向かないね」
「僕は奇術師に憧れていたのです。どんな苦労も背負いますから、お願いします」
 少年の顔を眺めて、ピエロは猫なで声で、「その為には、お前は悪魔に何か売らなければならないよ」と言った。
 少年は、奇術のためならなんだってくれてやる、と思った。
 ピエロは少年の心を見透かしたように頷き、「悪魔は新月の夜に、この廃墟にやってくる。ちょうど今日は悪魔に会える日だ。夜中にもう一度ここに来なさい」と言った。

 少年はその日の夜、こっそりと家を抜け出しては、人気のない廃墟にやってきた。そこには誰もいなかった。騙された、と思って踵を返すと、声が聞こえてきた。「影をくれ」、と声は言った。あまりにも低く、感情の無い声だった。少年は身震いした。「影をくれ」と声は繰り返した。少年は勇気を振り絞って、「いいよ。影をあげましょう。でも、そのかわり僕を一流の奇術師にしてください」と言った。声は低く笑った。その後の記憶は少年には無く、次に目を覚ました時には廃墟の壁にもたれるようにして朝を迎えていた。

 少年は先日のピエロに弟子入りするつもりだったが、それ以来一度も彼はあの廃墟に訪れなかった。
 ためしに陽の光の下に躍り出てみると、影は本当に消えていた。そして少年は、誰に教わったわけでもないのに、すばらしい奇術の数々を使いこなせるようになっていた。念ずれば手のひらから金貨はこぼれるし、手を叩けば鳥が現れた。少年は毎日廃墟の舞台に立つようになった。彼の奇術は人目を惹き、気付けば街の人気者となっていた。

 少年には、かつて愛を誓い合った、いいなづけがいた。少年の奇術を見に、廃墟に通い詰めているのは彼女であった。ふたりは幼いながら、互いのことを深く想い合っていた。
 ところが、少年の方は少しずついいなづけへの気持ちが冷めてゆくのを感じていた。奇術師となった少年の次の夢は、旅芸人になることだった。もしも親の言うとおりに彼女と結婚したら、そんな自由な暮らしができないかも知れない。少しずつ、彼女の絡めてくる腕のぬくもりや、会う度せがまれるキスを疎むようになった。

 少年は父親に対して憎しみを持つようになった。少年が学校にも行かず、奇術をしてお金を集めていることを両親は快く思っていなかった。お酒に酔うと母親を殴る父親のことを、少年はずっと昔から心の奥底で嫌悪していた。従順なポーズをとっていたが、本当は父親をどれほど憎んでいたか、彼はそのことに気づき始めていた。

 少年の名は若い天才奇術師として高く評価されるようになった。独りぼっちで空想ばかりしていた男の子のまわりには、今やたくさんの幼子がまとわりつくようになった。少年を妬んで悪戯をする者も現れた。少年は名声を得てもなお、たくさんの不満を抱いた。
 そこで周りの人間を脅かそうと、奇術を悪用した。今からこのネズミを殺して見せる、と言いながら、ネズミのしっぽを掴み、もう片方の手でひと撫ですると、ネズミは死んだ。それを見た人々は恐れおののいた。「この子どもは神の子か、悪魔の子だ」と口々にそう噂した。

 ある日、少年のいいなづけと、父親が行方不明になった。街の人々が必死で捜したところ、街はずれに流れる小川に、ふたりの安らかな亡骸が横たわっていた。目立った外傷が無く、医者も首を傾げた。人々は無言のうちに、あの天才少年が犯人ではないか、と疑った。

 少年は自分が何をしたのか、よく憶えていなかった。時々、そんな風になるのだ。父親といいなづけが死んだ、と聞いても、何も感じなかった。いつの間にか、彼は人間の心を失っていた。

 やがて少年は街の人から畏れられ、疎まれるようになった。もう彼の奇術を見に来る人もいなくなった。父親といいなづけが死んだことから、彼はもう何も気にする必要が無くなった。憧れの旅を始めて、どこか遠い街で奇術をして暮らそうと思った。少年はこっそりと家を出て、少しばかりの商売道具を携えて旅に出た。

 途中、日照りの中を歩かなければならず、少年は水を欲して倒れた。「暑い、このままでは死んでしまう」と少年は思った。そこに少年より小さな女の子が現れて、少年の様子を見て慌てて水を差しだした。少年は黙ってそれを飲み、お礼に金貨を取り出して見せた。女の子は目を丸くして、それを受け取った。少年が立ち去ろうとすると、その背中に向かって女の子は叫んだ。
「あなた、変よ。影が無いじゃない」
 少年は気を悪くした。 
「影がないことがそんなにおかしいかな」
「おかしいわ。影は存在している証拠だもの」
 女の子は言った。少年はなるほどそうだなと思い、自分に影が無いことを恥じた。そうだ、今夜は新月だ。悪魔を呼んで、影を返してもらおう、と少年は考えた。

 その日の夜、木陰で少年は眠りについた。夜中にふと目覚め、悪魔を呼ぼうとしていたことを思い出した。闇の中で、悪魔を呼び寄せようと目を凝らしていると、声が聞こえてきた。
「少年、私に何か用かね」
「影を返してください」と少年は言った。悪魔は鼻で笑った。
「そうしたら、お前に与えた能力はもう二度と使えなくなるぞ。それでもいいのか」
 少年は少し考えたが、自分はもう悪魔の助けを借りずとも一人前にやっていけると思い、「構いません。今僕が欲しいのは、影だけです」と答えた。悪魔は、乾いた声で笑った。

 翌朝、気付くと木陰の下に少年は横たわっていた。立ち上がり、木陰から出ると、黒い影が靴の先から長く伸びた。少年は満足して、さあ先にすすもう、と歩きだそうとした。その時、不意に故郷が懐かしくなった。そして、自分を大切に育ててくれた父親や、愛するいいなづけはもう死んでしまったのだということを思い出した。

 少年は自分が心を失っていた間に何をしたのかに気づいた。それは感じやすい彼の無垢な心には重すぎる罪の意識だった。彼は道中で病に伏して死んでしまった。