静寂

 時計の音が、永遠のような一瞬を積み重ねていく。確実に、人生は消費され続ける。そのことを忘れるため、高校生の僕は、常に耳を塞いでいた。両耳からだらしなく垂れた黒いコードはある点で結ばれ、そのままターコイズ・ブルーの四角い機器につながる。ボタンを押せば千種類もの世界が流れ出す。音楽は僕の生きる世界そのものだった。
 だから、ポータブル・オーディオプレーヤーを落としたあの日、僕の世界はそこなわれてしまった。僕はただ、いつものように電車に乗り込み、ドアの脇の僅かな空間に身体を埋めて、読書を楽しんでいただけだった。電車が新宿駅に滑り込んだことを告げるアナウンスは、僕の耳には届いていなかった。突然背後から降りようとする人波が押し寄せて、僕の左肩を誰かが強く押しのけた。僕はよろめき、前のめりになった。不快な感覚が走り、イヤホンが耳の穴から抜け落ちた。電車とホームとを隔てる闇に、胸ポケットに入れておいたポータブル・オーディオプレーヤーが吸い込まれていくのが見えた。
 降車する客の波が絶えると、乗車する客の波が反対方向へ押し寄せた。僕の失態に、周りの乗客はおろか、駅員すらも気付いていないようだった。駅員に伝えるべきだという考えと、試験に遅れてはいけないという考えが頭の中で交錯して、僕は混乱した。そうしているうちに、ドアは閉まった。

 ポータブル・オーディオプレーヤーを線路に落としたことは、母には黙っておくことにした。怒られるのが関の山だからだ。もしくは、勉強の妨げになるものがひとつ減って良い、などと言われるかもしれない。母は芸術への理解に乏しく、文学や音楽は「実用的ではないから、価値が無い」と考える人だった。
その頃の僕は受験生で、母親に言われるままに、それなりにレベルの高い国立大学の法学部を目指していた。しかし、秋になって、成績は緩やかに下降を始めた。そんな時期に思わぬ喪失体験をしたために、僕は壊れてしまった。不眠症になったのだ。
 眠ることが昔から大嫌いだった。意識が曖昧になってゆき、ついに眠りに引きずり込まれるあの瞬間が怖かった。夜の静寂は、僕を不安に沈める。だから、僕は音楽を聴きながら眠るのが習慣だった。ところがプレーヤーを落としたせいで、僕の夜から音楽が失われてしまった。それが不眠の引き金となった。
 睡眠不足の為に、昼間も眩暈に襲われ、成績は急下降した。不眠症になったことを告げると、母親はひどく狼狽えた。精神科に通院させるべきか、真剣に悩んでいる様子だった。不眠の原因は夜の静寂にある、と僕は信じていたが、それを母に言うのは嫌だった。
「あんたは昔から素直で、手のかからない子だったのにねえ」
と、疲れた顔で母は言った。僕は苦い気持ちを抱えたまま、沈黙した。
 僕が母に抗わないのは、そうすることが一番楽だからだ。彼女の言うことは大抵正しかったし、お陰で大きな失敗をせずに生きてこられた。だけど、そんなふうに人生の責任を他人に預けている自分に、自信を持てたことなんてなかった。
 僕は何度も何度も、寝返りを打った。それは永遠のような、恐ろしい時間だった。耳を澄ますと、等間隔の秒針の音が浮かび上がってくる。じきに、微かな心臓の音まで聴こえてくる。不安に駆りたてられ、そっと手を胸に当てると、思いのほか強い鼓動を感じる。自分の身体の中に、知らない生き物がいるみたいだと思う。この生き物が突然死んだら、僕だって死ぬのだ。夜の闇に閉じ込められたまま、虚しい思考が際限なく続く。

 ある夜、突然閃いた。午前三時くらいだったと思う。いてもたってもいられなくなり、リビングに飛び出すと、同じように眠れぬ夜を過ごしていた母がホットココアを飲んでいた。深呼吸してこう告げた。僕は法学部ではなくて、文学部に行きたいのだ、と。
 母親は困惑した様子だった。理屈を並べたてて僕を説得しようと試みた。だけど最終的には、僕のやつれた顔を見て、同じようにやつれた顔で頷いた。
 
 それから、猛勉強の日々だった。睡眠不足と闘いながら、なんとか合格した。大学生となった僕は、独り暮らしを始めた。フランス文学を学びながら、時々こうして過去を振り返ったりしている。
 不眠の症状は、いつの間にか消えていた。今思えば、僕を不安にさせていたのは夜の静寂ではなく、大人になる、ということだったような気もする。