永い眠り

 


 彼女は眠っている。僕は目覚めている。彼女の傍らで、瞬きもせず、壁の無機質な白を眺めている。だが、この白は本当に壁の白だろうか。僕は今、部屋にいるはずだった。誰の部屋に? 僕の部屋に。しかし、僕がいるのは夢のなかかも知れない。ここが現実であるという証拠はどこにもない。
 傍らの彼女は、死んだように眠り続けている。何時間こうしているのか、定かではない。彼女は死んでいるのかも知れない。どちらにせよ、それは大した意味を持たない。彼女は確かに生きていた。だがそれは僕の記憶の中での話であって、あの頃の彼女はとうの昔に失われてしまった。笑い方の下手な少女だった。教師に指され、震える華奢な肩を、僕は斜め後ろの席から眺めていた。彼女は優しすぎた。周囲の人間に虐げられ、笑いの種にされていた僕に触れることを厭わなかった。あの頃の、痩せた色白の少女は消えてしまった。僕の伸ばした腕の上で眠るのは、見ず知らずの女だった。そばかすだらけだった頬も、直線的だった身体も、今や艶やかな、柔らかい曲線を描いている。
 変わったのは、外見だけではない。数日前に会った時、彼女の瞳の煌めきは、真夏の川面に反射する陽の光を連想させた。それは意識が外側に向いている証拠だった。大人になった彼女は、とても器用に笑った。
 その日彼女は「友情の証として」、僕に、ひとりの男を紹介した。それは彼女の婚約者であった。
 男は「紳士」であった。深緑のネクタイ、上質な腕時計、皺ひとつないシャツ、形の良い唇、穏やかな声。彼の持ち物はひとつひとつ、彼が「紳士」であることを正確に伝えていた。彼女はその隣で、ワインレッドのワンピースを着て、幸福な笑みを浮かべていた。彼女もまた、淑女であった。
 僕は羞恥を感じた。よれたジャケットを羽織り、傷のついた腕時計をして、小さい頃によくからかわれた癖のある髪の毛を、終始撫でつけていた。彼女がどうして僕をこんな目に遭わせるのか、皆目見当がつかなかった。婚約者にとっては、愛する女性と幼い頃から兄弟のように親しくしてきた男の存在など、疎ましい限りではないか。僕もまた、唯一の友情を奪ってゆく男の存在を、憎らしく思った。僕らは絶対的に相容れないはずだった。ひとりの女を間に挟み、対峙する関係となるはずだ。だが僕の予想は裏切られ、男は僕に手を差し出した。「これからも三人で食事をしたい」と彼は言った。僕はその瞳の中に曇りを探した。本心を裏切った言葉を口にする声の、微かな温度の低下を聴きつけるために耳を澄ました。だが彼の目は透き通っていたし、彼の声は温もりに満ちていた。
 僕は汚い人間だった。多分、不幸な世界に生きていたからだと思う。彼は誠実で、正義感が強く、深い優しさを持った人間だと分かった。彼なら彼女を確実に幸せにしただろう。それが僕は許せなかった。
 

 そんなわけで、彼女は僕の傍らで眠っている。彼女が目覚めるか否か、僕にも分からない。永遠に眠り続けるとしたら、それは死だろうか。きっと死によく似ているだろう。もし目覚めたとして、彼女は僕の元に戻ってくるだろうか。いや、戻らない。すでに彼女は遠いところに行ってしまった。僕の手の届かない、陽の当たる世界に、僕の両腕をすり抜けて行ってしまった。
 彼女を眠らせるのは簡単だった。僕は薬剤師をしていた。精神の薬に関しては熟知していたし、何百種類もの薬の入った、小さな引きだしの沢山ついた戸棚から、こっそり白衣のポケットにいくつか薬をすべりこませた時も、誰にも気づかれなかった。用事をつくって彼女を家に呼び、紅茶を出した。彼女はすぐに、深い闇のなかへ沈んでいった。僕はその半開きの唇に、紅茶を流し込んだ。ふと思い立って、自分の口に冷めた紅茶を流し込み、彼女に口移しで与えた。死に物狂いでそれを繰り返した。そうしているうちに、僕の方も目蓋が重くなってきた。そして次に目が覚めた時、彼女はまだ眠っていた。
 僕が飲んだ量など僅かなものだったらしく、多少の眩暈だけですぐに起き上がることができた。眠ったままの彼女を僕のベッドに連れて行って、一緒に横になり、柔らかい髪を触った。眠り姫は、王子様のキスで目覚めたのだったな、などと下らないことを思い出した。僕はためしに彼女にキスをしてみた。彼女は目覚めなかったが、それは当たり前のことだった。
 彼女は人形のように静かだった。僕はその耳たぶを齧ったり、柔らかい肌に触れてみたりしたが、それ以上は何もしなかった。ひどく疲れていたし、僕にだって罪の意識があった。頭が冴えてくるに従って、それは少しずつ明瞭に僕の脳裏にちらつくようになった。逃げるように僕は目蓋を閉じて、すべてが夢であることを願った。

 夢はけたたましい呼び鈴の音で破られた。僕はボサボサの頭で玄関先へ向かった。ひんやりとしたドアに鼻を押し当てて覗き穴を見れば、その向こうには困惑した表情の紳士が立っていた。
 僕はドアを開けた。紳士は僕を見下ろした。
「マリの行方を知りませんか」
 彼の瞳は深い悲しみの色をしていた。僕は黙っていた。沈黙が暗い玄関の狭苦しい空間を満たした。紳士は僕に明らかに疑念の目を向けていた。
「マリは眠っています」
 と、僕は告げた。紳士の整った唇がひくりと動いた。
「彼女は悪い病気のようです。高熱を出して、僕に助けを求めました。僕は、薬剤師ですから」
 紳士は当惑した表情で、僕を見つめた。
「それは変だ。私には何も連絡が無かった。会う約束をしていたのに。こんなことは今までなかった」
「連絡もできない程、苦しみが大きかったのでしょう」
 僕の言葉に、紳士は眉をひそめた。
「ではどうしてあなたは、私に早くそれを教えてくれなかったのですか」
「必死だったもので」
 僕は端的に答えた。紳士は混乱している様子だった。マリに会わせて欲しいと彼は言った。僕は頷いて、奥の部屋へ彼を通した。散らかった衣服やペットボトルを踏み越えて紳士は急いだ。時計を見ると、午後三時だった。一体いつの午後三時なのか、僕には分からなかった。
 紳士はマリの姿をひと目見ると、息を飲んだ。
「頬が白いじゃないか」
 震える手でマリの腕を持ち上げ、その手を握った。肩を震わせ、嗚咽を漏らした。僕はその背中を数歩離れたところから眺めていた。 
 彼は彼女を心の底から愛しているのだということが、痛いほど分かった。さて僕は、マリを愛していたのだろうか。答えは明白だ。僕の抱いていた感情は、愛によく似ていたが、偽物だった。だけど、そんなことは問題ではなかった。
 紳士はやっと聞き取れるくらいの声で、まだそうと決まったわけではない、と呟いた。そして突然立ち上がり、僕に冷たい一瞥をくれた。それから、無言で部屋を出て行った。君を今すぐ殴り殺したい、と彼の目は言っていた。だけど彼はそんなことはしなかった。それはあまりに紳士的ではなかったからだ。そのかわりに、最も理性的、かつ正当なやり方で、僕を苦しめるに違いない。


 あと数分したら、サイレンの音が聴こえるだろう。それは、僕らが長い夢から醒めて、現実に連れ戻される合図だ。正義の制服を着た人間が、僕に手錠をかけるだろう。罪の意識が僕を捕らえて、蝕むだろう。それは絶望そのものだった。だが、希望もあった。どうやら彼女は生きているらしい。いや、それは分からない。少なくとも婚約者は、そう信じているように見えた。僕だって、そうであって欲しいと願う。今はそう願うことでしか、苦しみに抗えない。だが、それは大した意味を持たない、とも思う。いずれにせよ、彼女は僕の心の中で、永遠に眠り続けるのだから。