階段

 他愛も無いお喋り、夢の中での思いがけない遭遇、小さな約束、そして、答えあわせのような告白。アイスクリームが溶けていく速度で、近づく身体。傷の記憶。むき出しの言葉。契約の破棄、そして訪れる終局。
 二十一歳にして女性を知らなかった僕の想像上の「恋愛」とは、そういうものだった。
 彼女との関係性にどんな名前をつけたら正解だったのか、未だに分からない。

「上った時と、下った時とで数が違うのよ」
「どうして段数なんか数えたの?」
 彼女の冷たい肩を抱くと、骨の軋む音が聴こえた。
「私の住んでるアパート、ひどいの。管理が行き届いてなくて、そこらじゅう埃だらけ。夏なんて、廊下中に虫の死骸が転がってた。だから私、耐えられなくなって、掃除することにしたの」
 偉いね、と言うと、まあね、と答えた。
「仕方なかったの。あのアパートの住人で、廊下の埃や死骸なんかに頓着している人間は私しかいないって気づいていたから。だけど、恥ずかしかったわ。誰にも見られたくなかった。でも始めてしまったなら、それが何らかの意義を持つまでやり通すのが私のやり方なの。あのアパートの住人たちが感謝の念を抱くことね、目に見えない私という他者に対して。それが私の目指す『意義』だった。そのためには、次に彼らが廊下を通った時、考え事していても音楽を聴いていても、酔っぱらっていても違いに気づくくらい、ピカピカにしなくちゃいけないでしょ? だったら、階段まで掃除するべきじゃない?」
 そう思うよ、と呟いた僕の声は、彼方から近づき、その色を変えて不意に遠ざかってゆくサイレンの音にかき消された。まだ向こう側にあるはずの冬から、風が吹いてくるのを感じた。
「三階の廊下を掃き終わって、階段まで辿りついた頃にはもう惨めな気分になっていたの。虫の死骸って、耐えられる? あれは確か九月だったから、まだ沢山転がっていたのよ、潰れた蝉やら、頭の無いゴキブリやら。私、召使いか何かになった気がした。それで、数えはじめたの。階段の数に何の意味もないって分かっていたけれど、他に気を紛らわす方法が思いつかなかったの。数を数えるって、不思議よ。こんがらがった思考の糸を上手に解いてくれるもの。一度、一階まで降りて、一段一段数えながら上って行ったの。確かに三十五段だったわ、三階まで。それで、三十五から数えながら、一段一段掃いて行ったのよ。三十五、三十四、三十三…四、三、二。それでおしまい」
 数え間違えたんじゃないの、という僕の言葉を遮って、彼女は白い笑顔を見せた。
「数えてみる?」

 僕はその夜、名前も知らない彼女のアパートで、まるで小さな儀式のように、数字を口にしながら階段を上った。三階まで確かに三十五段あったし、彼女の言うとおり掃除は行き届いておらず、そこかしこに色づいた枯葉が散らばっていた。三〇三号室の黒いドアの前で、彼女は上目づかいで僕を見た。二重瞼の線が、絵に描いた女の子のようにくっきりと見えた。蛍光灯は切れかかっており、ブーンと不安にさせる音が響いていた。僕らはそれが当然の成り行きであるかのように、唇を重ねた。
 結局、下りの段数を数えることができたのは、翌朝のことだった。

 僕が一か月足らずで「失恋」した話を、細部を曖昧にして打ち明けたところ、親友は歪な表情を浮かべこう言った。
「それはさ、お前、たぶらかされたんだよ」
 そんなことはない、僕らの間には誠実な愛情があった、と僕は反論した。彼女は何ひとつ嘘をついていない。上りの段数は三十五段だったし、下りの段数は三十四段だったのだから。
 あのな、上ったら、下りなくちゃいけないんだよ、と親友は言った。
「上りと下りが食い違うなら、それは何かが間違っていたんだよ」 

 冷たい季節が終わる頃、僕は記憶を頼りに、彼女の住む街を彷徨っていた。会いに行こうとしたわけではなかった。ただもう一度、あの階段を数えてみたくなっただけだ。だが、彼女のアパートを見つけ出すことはできなかった。