時計のない街

 目覚めた時、何時なのか分からなかった。昼なのか夜なのか、遮光カーテンを揺らす風が生温かくて、僕は微睡のなかに溶けていた。憶えていることといえば、昨日の朝に酷い寝坊をして、会社に二時間遅刻し、上司の嫌味を一日中聞かされる羽目になったこと。山のような残業を片付け、最終列車に滑り込んで、近所の飲み屋でやけ酒を仰いだこと。そこから先の記憶が無い。
 眩暈とともに起き上がり、カーテンを開けた。空には雲一つなく、世界は退屈な平和に包まれていた。部屋を見渡すと、ふと違和感が募った。大切な何かが欠落しているような気がしたのだ。

 僕は街に出た。アパート脇の公園を横切るときも、駅へと続く人混みをかきわけながらも、違和感は続いていた。ふと、自分が腕時計をしていないことに気づいた。スマートフォンを取り出すと、それは故障していた。あるべき位置に、あるべき文字が光っていないのだ。今日が何月何日何曜日で、今の時刻は何時なのか、分からなかった。
 駅前の広場で、空を仰いだ。確か広場の真ん中に背の高い柱が立っていて、アナログ時計が僕らを見下ろしているはずだった。しかしあるはずの場所に、それは存在しなかった。ただ、難解なモニュメントが茫洋と佇んでいるだけだった。
 時計がこの世から消えてしまったと気づいたのはその時だった。
 混乱すると同時に、僕は自分の行くべき場所を思い出した。今日は確か、N街の喫茶店で、昔の恋人と会う約束をしていたはずだ。困ったことに、待ち合わせの時刻が思い出せない。
 改札を通り抜け、緩やかに進む人混みをかき分けた。誰ひとりとして腕時計をしていなかったし、彼らは時間を忘れたように、のんびりと歩いていた。頭上の案内板には発車時刻の代わりに、こう書いてあった。
「次のT駅行の電車は 只今 二駅前」

 電車はなかなか到着しなかった。僕は苛立ち、ホームを巡回している駅員をつかまえ、こう言った。
「時計のある場所を教えてもらえませんか」
 駅員は妙に背の低い、初老の男性だった。僕の言葉が聞き取れなかったようで、穏やかな、幸福そうな微笑みを投げかけてきた。時計です、時計、と僕は繰り返した。男は僕を見上げ、目を細めたまま、諭すように言った。
「お客様、どうか焦らないでください。電車の到着はもうすぐですよ。あなたはただ、待っていればいいのです」
 その言葉とおり、やがて電車はホームに滑り込んできた。僕はそいつに飛び乗った。

 車窓を眺めながら、死んでしまった恋人のことを考えた。
 僕の大学生の頃の彼女は、時計恐怖症だった。付き合いたての頃、腕時計をプレゼントしたところ、彼女は箱の中身を知った途端に泣き出した。秒針が規則的に時を刻む音は、彼女の繊細な鼓膜や、豊かな想像力を過度に刺激してしまうらしかった。僕はひきこもっていた彼女を、自分の働く喫茶店に連れ出した。その空間には時計が無かったし、懐の深い店長は彼女の病気をよく理解してくれたからだ。彼女はそこで働き始めた。しかし、後に病状が悪化して、よく晴れた冬の日に死んでしまった。

 N町の喫茶店に足を運ぶのは、数年ぶりだった。暗闇のなかに仄明るいランプが灯り、幻想的な光を投げかけていた。時が止まったかのような空間の隅っこで、死んだはずの彼女が僕を待ち続けていた。
「会いに来てくれて、ありがとう」
 と、彼女は言った。僕は無言で頷いた。彼女の白い頬や、細すぎる腕を眺めながら、運ばれてきた珈琲を啜った。
「気づいてる? ここは時計のない街なのよ」
「恐怖の対象が無くなって、さぞかし居心地が良いだろうね」
 彼女は肩をすくめ、哀しく笑った。
「でもね、退屈。永遠のなかに取り残されてしまった気分だもの」

 次に目が覚めると、僕は腕時計をしたままベッドに横たわっていた。それは五月二十一日土曜日、午前十一時十二分を示していた。生ぬるい涙が頬を伝うのを感じた。静かすぎる部屋に、秒針の音が響いた。