かなしいひとのそばにいること

 春から心理屋になる。正確には、心理屋とは少し違うのかも知れないけれど、詳細をあまり書きたくないので、ここではそう呼ぶことにします。

 その仕事、磨り減るよ。と知人に笑われた。人を人と思っていたらやっていけないよ、と。その言葉は多分正しい。不完全な人間を、不完全な人間が救うことも見抜くこともできない。この世に完全な人間などいないし、私だってそう。


 人々が口にする「ふつう」の幸福、テレビに映る「ふつう」の家族が決してふつうなんかではないことに気づいてから、私は陽の当たらない世界にばかり目を凝らすようになった。

 心理学に興味を持ったのは、幼少期からまわりに「かなしいひと」が多かったからだった。子どもの頃の一番古い記憶はと訊ねられれば、大泣きしている母の姿が浮かぶ。小学校の教室で傍に居た子のほとんどが、中学校に上がってから学校に来なくなったり、自傷に走ったりした。初恋の男の子は「もうすぐ両親が離婚するんだ」と教えてくれた。不自然な微笑みを浮かべながら。
 自分は平凡な幸せ者だという意識が、子どもの頃は確かにあった気がする。だけど、ある時期から、そっと掌で温めていた小さな幸せを愛することができなくなってしまった。自分の過去の傷を理由もなく眺めたり、瘡蓋を引っ掻いたり、傷跡に塩水をかけてみたりした。自分より恵まれているように見える人たちを羨み、妬むことを覚えた。そうして無理やり創り上げた「不幸な私」にずっと憑りつかれてきた。

 そのことに気づいて、私はまた変わった。小さな頃のように明るく笑ったり、堂々と振る舞えたりはできないけれど、少なくとも、幸せな自分を愛せるようになった。
 
 「不幸の感情に満たされている人を救いたい。それは私のように、明るさと暗さを合わせ持っている人間にしかできないことだ」
 などと、高校の頃日記帳に書きつけていた記憶がある。

 安っぽい使命感だったと思う。メサイアコンプレックスという言葉があるけれど、私を突き動かしていたのはまさにそれだった。私が最も忌み嫌っていた「偽善」の色に、自分自身が染まっていくような感覚を覚える。結局私は、自分が救われたいだけなのではないか?

 そんな考えをずるずると引きずったまま、ここまで来てしまったわけで、それが今、少し怖い。

 途方に暮れると、大好きな仏映画の『気狂いピエロ』のワンシーンが頭を過る。マリアンヌの嘆き声が聴こえてくる。

 「私に何ができる? 何をすればいい?」