犬人間

久々に会った同窓は全く好ましい人間になってしまっていた。もとより好ましい人間ではあったが、今ではもう犬のような、居るだけで場が和むような存在感を放っていたのである。記念に撮った彼の写真なんて、柴犬が顎を愛撫されているときのそれであった。

その写真を見るたびに、私は、この人間を信じきった顔は如何にして出来るのか、と思案せずにはいられなくなる。私の濁り切った、小悪党のみみっちいほくそ笑みとは根本から訳が違う。積み上げてきた実績からくる自信によるものか、はたまた単に彼の顔の造形の良さによるものか。いずれにせよ私は、彼を織りなすいくつかの輝かしい業績よりも、むしろ、彼の屈託のない笑顔の方に劣等感と自己嫌悪を覚えたのである。

彼には一時期物理を教わっていた。万有引力とか弾性力の範囲だった。私から頼み込んだのである。私の成績は、彼に念入りに教わったにもかかわらず、酷いものだった。「オレから教わってこれか」と彼は言った。

私はそのときのことを思い出して彼に話した。「あのときのオレ、イキって変なこと言ってそうだな」と例の柴犬の笑顔を返した。そしてこんなことを言っていた、と言うと謝罪を述べながら、しかしやはり屈託のない笑顔でいた。彼がすっかり反省して謝ってしまったので、私はなんだか悔しくなって、少しばかりの小言を一つや二つ、正直に言って彼を虐められる絶好の機会だと思って、言ってやった。彼は、それには全く反応しなかった。私はいよいよ自分が恥ずかしくなって、自分のいやらしさが本当に憎くなった。しかし私のような人間は、どんなに自分が憎くなるような愚行をしようとも、その瞬間には謝罪しない。なぜって、謝罪した上で相手側から追撃されてしまったら、私はどうやって立ち直ればいいだろう?憎くて仕方ない自分の醜いところをほじくり返されて!

彼の写真をまじまじと見ながら、私は少し前なんとなしに読んだ自己啓発本を思い出していた。その本曰く、人望がある人には一つ秘訣があって、それが「他者の尊厳を高めてやっている」なんだという。承認は人が欲しがっているものの中で唯一、あなたが与えても減らないものである、しかもどういう訳かみんな滅多に与えない、あなたが供給源になれば人は自然と集まってくるのだ!と。私に承認されて何になるだろうという自己否定は置いておいても、書いてあることは論理的で真っ当に思えた。また別の本では正にこう書かれてあった。「犬のように振る舞え」と!

思えば私が好ましい人間だと思ってきた者は、尽く犬のようであった。そういう犬人間──今私が命名した──は、分かりやすくて素直で、もし暗いところや思い悩むところがあったとしても、それもどこか喜劇的なのである。しかも決して人を侮辱しない。イジリという体ですら人の尊厳を侵したりしない。どうして好まずにいられるだろう。

一方で私が属する凡人がいる。人を侮辱するし、それがしつこいことすらある。世間体が許すなら、烏滸がましいが、一切の関係を断ち切りたいと思わせることがある。めんどくさくて口ばかり達者であり、そのくせ一丁前にプライドばかりは高い。要するにつまらない人間を総じて凡人と呼ぶのだ。

しかしこうして凡人を上から目線で語るのも、実に俗っぽい。犬人間ならこうは書くまい。彼らはポジティブな行動屋である。何かをぐちぐちと考える間もなく、行動に移している。凡人についていちいち小馬鹿にするでもなく「君も犬人間になろう!」とか書いているだろう。

実際犬人間になるコツはあるだろうか?

外形的には、人を褒めたり、逆に貶したりしないことは役に立つだろう。
内面でいえば、これは難しい。犬人間には一見して内面がない。どこかキャラ的である。目を背けたくなるような深刻さがない。
というより、口だけの裸の王様に深刻さがあるのは必然で、むしろ「あって当然の罰」なのだろう。深刻さがあるというのは人間としてどこか未成熟なところがある。そしてその深刻さを以てますますプライドと自己嫌悪を増していくのだ。凡人の負の螺旋構造である。

内面を消すのは難しいが、自我を肥大させないのはいささか容易である。SNSを見ないとか、暇な時間を作らないとか、人とコミュニケーションをとるとか、やりようがある。
もしちゃんと内面を消したいのなら、次にようにするのがいいだろう。すなわち、誰しもの頭の中にあるぼんやりした「こうした方がいいよな」を「やり切る」のである。その通り。これはかなり難しい。みんなSNSなんてやめて自己研鑽や遊びに費やした方がいいとか、タバコなんてやめて貯金した方がいいとか、痩せた方がいい、筋肉をつけた方がいいなんて「分かりきっている」。しかしやはり凡人がゆえ「自己をポジティブに否定する」ことが出来ない。凡人は劣等感があるのでそれ以上の自己否定に、どんな形であろうと耐えられないのである。

真の問題は劣等感である、と分かったところで疲れたので終わりにしたい。もしかしたら続きを書くかもしれないがとにかく終わりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?