日記

死にたいと言ったあの子の、腹立たしいほど生気に満ちた唇を覚えている。
それは空間に空いた穴の輪郭ではなく、間違いなく動物の唇だった。
彼女は結局死ななかった。
でも死んだほうが良かったんじゃないかと思う。
SNSに詩の体裁をした駄文をぽつぽつと垂れ流すぐらいだったら、死んだほうが良かったんじゃないか。

よく友人は「何歳までに死にたい?」なんて話をする。
どうせ30までに死にたいとか言うのが定石だ。
死にもしないのに。

この手の人間は死に関する細々とした知識はあるのに、自殺に対する実践的な知識や心意気は何一つない。
所詮、言葉の火遊びという訳だ。

実際のところ、「死にたい」という理由で死ぬことは出来ないんだろう。
死ぬとしたらそれは「死ななければならない」という理由だったはずだ。
燃え盛る高層ビルから逃げようとした人達が、火から逃げるためのベターで唯一の選択肢として落下を選んだように。

彼らは落ちたいと願ったはずはなく、むしろ助かりたいと思って、そのために「落ちなければならない」と考えて、落ちた。
であれば、私達が死ぬためにはそのぐらい切実な環境下でなければならないという訳だ。
つまり、死ぬか、あるいは死ぬかの環境だ。

私の周りの死にたがりは、こういった死に対する感覚が非常に鈍感で、にも関わらず繊細そうな口振りは達者なものが多い。
そうでないとそもそも「死にたい」なんて口に出さないだろうが。
死ぬなんて口に出さずに死んでいった方が未練がましくなくて美しいので、繊細を気取る彼らにはそういうことを気取られないように死んでいってほしい。
そして私もまた、これを書いてしまったので、しばらくは死ねない。

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