電子書籍で三島由紀夫を読みたい

どうやら電子書籍の対義語はないらしい。
僕はなんとなく「物理本」だと、口にも思考にもしたことはないが、そういう感覚はあった。
しかし「物理本」と調べても物理についての本が出てくるばかりで、紙の印刷された本はひとつも影がない。
こんな馬鹿な調べ方をした以外に色々工夫してみたが、電子書籍の対義語はなかなか定まっていないようである。
まだ電子書籍はニッチな需要なんだと思い知らされる。
本といえば特別に指定しなくても当たり前に紙の印刷された本なのだ。

そんな調子なので、読みたいのに電子化されていない本は沢山ある。
三島由紀夫の作品はそのうちの一つだ。
彼の作品は、ちょうど没後50年になろうとしたタイミングで日本がTPPに加盟した関係で、著作権の保護が70年まで延長された結果、いまだに著作権が切れていない。
彼の子孫、もとい著作権管理者もなかなか著作の管理が厳しいらしく、電子化の他、映画化なども断っているようだから、今後十数年は難しいだろう。

人は電子書籍にこだわらず紙で読めばいい、というかもしれない。
なんなら、読書とはページをめくる感覚やその重さを感じることを含めて「体験」であるから、電子書籍で読むなど言語道断である、なんていってしまうひともあるだろう。
僕は、言わせてもらうが、読書をしていて覚えるそれらの感覚を、ずっと煩わしいと思っていた。
取り出すのも、いちいちめくるのも、重いのも。
すべて障壁でしかない。

僕はギターをやっているので、この手の障壁がいかにモチベーションを下げるかをよく分かっている。
ギタースタンドにたてかけて好きな時に弾ける環境と、毎回律儀にケースに入れるのとでは弾く頻度がまったく変わってしまう。
気が付かぬ間に、両者の技量の差は谷に折られる。
だから、こういう障壁はなるべくない方がいいのだ。
僕はこの障壁仮説を熱心に信仰したために、また、スマホは読むには小さすぎるしipadは大きすぎると感じたために、わざわざipad miniを買ったぐらいだ。
この8万で何冊の本が買えたかなんて気にしてはいけない。
この8万がなければたえて本を読んでいないだろうから。

とはいっても羨ましい。
本をめくる感覚が好き、という感性。
こういう人達はすべての動作が文学になる。
動作が文学になれば日常が文学になり、つまり何をしても文学なのだ。
あとはそれを文字に起こすだけでいいのだ。
これを羨ましがらずにいられるだろうか。
三島由紀夫もそのようなタイプだったと思う。
「仮面の告白」には近江という同級生が体操の授業中に懸垂を披露する、ただそれだけのシーンがある。
それだけのシーンに、なんと三島は二ページも費やした。

彼の二の腕が固くふくれ上り、彼の肩の肉が夏の雲のように盛り上ると、彼の腋窩の草叢は暗い影の中へ畳み込まれて見えなくなり、胸が高く鉄棒とすれ合って微妙に慄えた。
こうして懸垂がくりかえされた。

 新潮文庫 三島由紀夫『仮面の告白』 p74

もっといえば脇毛が見えるシーンに半ページ。
どうでもいいが三島はたびたび脇毛を草叢と表現する。
ドストエフスキーが大地に接吻させるのと同様になにかしらの『癖』とみている。
それにもう一つ。
腋窩(えきか)の草叢(くさむら)と書かれても読みも意味も不明じゃないだろうか。
文脈で分かるものではあるが、そうでないのもたくさんある。
実際、三島作品はそういう知らない日本語が多すぎて読むのも大変で、いちいち調べてメモするという「障壁」ができてしまう。


しかし例えばkindleでは、長押しで辞書やwikiを参照してくれる。
最高だ。

ちなみにこの本は挫折した
むずいのも障壁です

書きたいことは書いたので終わり。
三島由紀夫作品の電子化待ってます。

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