大人を構成するものについて

悩み事を相談したところで、大人は非共感的である。
私はそれを心の経年摩耗のせいだと考えていた。つるつるになった、とっかかりの無い心が、人を「大人」たらしめているのだ、と思っていた。

実際それは部分的に正しかった。
働いていると思索する心の余地がまるでない。
仕事は常にやるべきことがあり、時間制限があり、素早く、かつ丁寧に扱わなければならないので、「私」に耽る時間はない。
家や移動時間に「私」に耽るなんてそんな辛いことをわざわざやるのも、なんだか億劫に感じる。
休めるときには休みたいものである。
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なんとなしに読んだ本には、大人になることについての記述があった。

成熟とは、「自分がおおぜいのなかの一人(ワン・オヴ・ゼム)であり、同時にかけがえのない唯一の自己(ユニーク・アイ)である」という矛盾の上に、それ以上詮索せずに乗っかっておれることである。

中井久夫・山口直彦『看護のための精神医学』

人間は思春期に訪れるこの二律背反に自我が引き裂かれるものの、成熟──つまり大人になるにつれて「それ以上詮索」しなくなることで危機を回避する、ということらしい。

この「詮索」という言葉はすごくしっくりくる。
大人は確かに「そういうものである」で済ませている事が多い。
そして自分が既に考えることについて止めてしまっているから、思春期特有の特有の悩みも「そういうものだから」ということで流してしまう、という訳である。

なんだか悪し様に書いてしまっているが、私ははっきりと「考えるのはすっかり止めてしまった方が良い」と思っている。

というのも、思春期の人間が考えること──それこそ人生の意味だとか、他人と似た格好をして群れることに対する忌避感だとか、そういうものは何一つ人生の本質ではないからだ。

人生の本質は、トートロジーに読めるが、人生を生きることにあるような気がしている。
言い換えると、自分の人生に向き合うことが、人生の本質である。

他人と同じでも異なっていても些末な問題であって、主体としての私がいかに生きるかという問題だけが大事なのである。

自分の人生がいかに短いかを知りたがったなら、その人生の中で、自分のものだといえる部分が、いかに小さいかを考えさせればよい。

セネカ『人生の短さについて』

終わり。


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