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詮索と興味の違い あるいは純愛について

YouTubeのおもしろ動画はあらかた見尽くしたので、もう女性のための恋愛指南なんて全く自分に関係ない動画を見たりする。
「こういう男はクソ」とか「あなたは悪くない」的なリップサービスが大半ながら、稀に興味深いことを言ってくる人もいる。
先日見つけたのは「私のことどう思ってるかな?みたいなのは他人に対する興味ではなくただの詮索です」という主張。
私はそこまで見てゲッ、と思った。なんだか自分にも当てはまる気がする。
詮索と他人に対する興味はかなり近いので、私がそこを混同してないとはっきり答えられるかと言えば、怪しい。

というかやっぱり混同してるんだろう。
人に会ったらまず「今日何してた?」とか「何時に起きた?」なんて話題を出すし。
目の前の人が「最近どう感じたか」とかは聞かないのだ。まぁ話題として変だしね。
でも私の周りに一人だけそういう人が──つまり初手から「どう感じたか」を聞く人がいた。

大学の部活でいよいよ引退するぞってとき、来てくれたOGの先輩に私の弟子を紹介した。
その先輩はたしか、挨拶を済ませるや「最近悩んでることある?」なんて質問を彼らにしたのだった。
変な質問だと思った。弟子たちも予期せぬ質問に少し困った様子だった。
彼らがどう答えたかは覚えてないが、こんな些細な質問は妙に印象的で覚えている。

今思い返せばあれこそ興味と言えるのではないか。
いやしかし悩みとは普通パーソナルな、人に言えないことと密接な関係にある。
本人は実のところどこまでの深さを期待していたのだろう。
「最近眠くて何も手につかないんですよ〜」から「自分の顔面が世界に嫌われている気がする」までのどこまでか。
すごく気になってきたが、どうせこんなことを覚えているのは自分だけなのである。

余談だがその先輩に一度「自分の話ばっかり」と言われてしまったことがあった。
たまに思い出して反省するのだけど、あのときの酔いの醒めようったらなかった。
先輩はあのときすでに、他人に対する興味とはどういうものかを理解していたのかもしれない。
「あなた、自分の話をするのは好きみたいだけど、他人にさせるのは散々ね」なんて思っていたかもしれない。

そういえば、星の王子様に似たような文脈があった。
子供に友達が出来たと言われたら、大人の聞くことといったら「親は何をしているの」「どれぐらい稼いでいるの」「兄弟の数は」とか数字を聞いて満足してしまって、その友達がどんな色が好きなのかとか、虫取りは得意なのかとか、そういうことは一切聞かないのだ、というやつ。
これは全く同じ文脈といえるだろう。
興味と詮索を履き違えた大人を諌める文だ。
大学生になって読み返したときは、今まで自力で解いてきた人生という名の試験の解説を読んだような、膝を打つ思いをしたものだったが、こうもすっぽり抜け落ちるとは。

最近あった飲み会では「純愛とは」みたいな話が出た。
私は「人間が自分でつくりあげた言葉に自分で悩むなんて馬鹿らしい、端からそんなもの存在しないだけだ」と思ったものの、頭から否定するのは憚られたのである程度考えのあった性愛と絡めて喋った。
後日積読していたフロムの「愛するということ」を読むと、「愛とは自分のなかに息づいているもの全てを与えることだ」的なことが書かれていて、愛による人類の融合を目指そうと続くのだが、これと興味の話をくっつけることはなんとなく出来そうじゃないか。

フロムは「自分のなかに息づいているもの」の例として「自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど」を挙げている。
そう、まさしく「興味」が挙げられているのだ。
これを今回詳らかにした「他者に対する興味」だと仮定して、「あなたに人間としてこんなに興味ありますよ」という自分を与えることができれば、それも愛の端くれとは言えそうだ。愛は全てを与えなければいけないのでまだ完全ではない。
人間として興味を持たれた人間はどうだろう。
「自分に人間として興味持ってもらえるのは嬉しいしなんならもっと開示したる」となる。
相手の方から自分を与えて──つまり愛してくれる。
そして自分に触発され相手も他者への興味を持ち、今度は自分が愛する番となる。
そうして自分を与え合うことを「純愛」と呼ぶのは、結構筋としてイケてるのではないだろうか。

さて、そうなると問題は、今度もし純愛の話になったときに、私が今日思いついたことをベラベラと喋る前に、「そもそもどうしてそれが気になるのか」とか他者への興味を忘れずにいられるかどうかである。
正直自信がないので、タトゥーでも彫っておこうか知らん。

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