はりぼての達観

若さを肯定しつつも
はりぼての達観が
青ざめ、挫けていく様を見るのが
私達は大好きなのです

芥見下々 湊かなえ『告白』 推薦文

私が近年感じている創作物への腹立たしさを、芥見下々は他人の著作の帯で完結させてしまった。

あるいは下記のポストもまた私の気持ちを言い尽くしている。

要は、はりぼての達観がはりぼてのまま通用する世界と、それを無邪気に楽しんでいる「冷笑家」が、私はこの上なく憎いのである。

その意味で「推しの子」や「薬屋のひとりごと」といった、主人公が大変なことを経験してきたとはいえ、そこで考えるのをやめてしまって傍若無人な振る舞いをしてしまう作品は本当に腹立たしい。
うっかりすると読者を軽蔑してしまいそうなほどに。

この世界は残酷である。
だからこそ、呑気に「どうせ」なんて言っている時間はないのだ。

第一、ほとんどの場合、若くして偉そうに達観したような意見を述べる奴は、急いで出した結論の「皮肉っぽさ」に満足しているに過ぎない。
例えば「それ〜が好きな自分が好きなだけじゃん」というセリフを吐く雑魚は腐るほどいるが、そういう雑魚こそ「皮肉っぽい真理をつける私」が好きなだけである。

私はギターが好きなのだが、ギターが好きな自分が好きだし、演奏している自分は我ながらかっこいいと思っている。
それに、自分が好きになれるような趣味を持つことは、そもそも素晴らしいことではないだろうか?
自分が何を言っているか考えたことがなく、他人の考えをコピペして生きているからそのような頓珍漢なことがいえるのである。
恥を知れと言いたい。

私のこのような考えを、それこそ冷笑ではないか、という考えもあるかもしれない。
言語道断である。
私は憤慨しているのだ。
冷たくも笑ってもいない。
熱く憤っているのである。

本を読め、と言いたい。
なんだ急に、と思われるかもしれないが、これらは本を読めば全て解決することなのだ。
待て、そこらの小説を読んで満足するな。
そこらの、それっぽい文章の羅列を美文だと言い張るようなクソみたいな小説を。
念の為言っておくが私は今もニヤリともしていない。
本気で書いている。
適当な小説を読むな。
主人公に共鳴出来るような、精神的ポルノに甘んじるな。
読書家といって、泣けるだとか感動するとか心を動かされる小説だけを読んでいる奴は全員雑魚だ。
読書家といって、1日たりとも本を読まないような日がある偽物に耳を貸すな。
そいつらは棚が埋まっているだけの雑魚だ。
棚が埋まっているだけの雑魚だから見せびらかすのだ。
雑魚どもが。

私達は生きなくてはならない。
ひどく悪意に満ちて、残酷なこの世界を。
「どうせ」と言っている暇があれば、なにがどう「どうせ」なのか考え専門的な知識を蓄えるべく読書しなければならないのだ。

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