「世の中お金かお金じゃないか論争」に終止符が付くのかな?
こんにちは。きょうもお疲れ様です。
なにか気を抜くと「世の中金だ!金さえあされすべての問題は解決できる!」と思っていませんか?世の中、お金かお金じゃないか論争は未だに終止符を打っていません。なぜ世の中「お金かお金じゃないか論争」は終止符を打つことがないのでしょうか?
まずはお金があればたいていのことは片が付きます。将来の衣食住の確保、子育てにかかる教育費、贅沢をするための娯楽費、人間関係のいても交際費が多い方がより多くの人と出会うことができて恋愛や仕事に関しても多くのチャンスが巡ってくるでしょう。つまりお金があるとチャンスが多い世の中なのです。
時系列は少し昔になってお見合い結婚制度があった時には、お金で恋愛関係からの結婚という仕組みは解決していてたように思います。お見合い制度の自然な廃止により、恋愛におけるお金の重要度は増しています。衣食住に関しても日本の文化が洗練されてくると国民がよりきれいで清潔かつおしゃれで効率的な動線の張られた家に住みたいという欲求が高まり、欲求の高まりとともに住居の価格も高まっていきます。住居に関してもお金が占めるウェイトは大きくなっているはずです。
食に関しても同じことが言えます。戦後の食堂では、うどんかそばしか選択肢がなかった。しかしながら、現代では日本テレビにて「ゴチになります」というコーナーで毎週のように高級料理を見る機会が20年以上国民に提供されているような社会になるとそれを食べるためには何が必要かといえばお金が必要だということになり、結局のところお金がないとメディアを通してインプットされる贅沢というところは味わうことができないとされ、「お金さえあれば」という思考が人の心の中で育っていったのが、現代の日本の風潮であるといえましょう。
しかしながら、お金があっても愛する人との永遠の別れや、経験できないような達成感など手に入れられないものもあります。宇宙の法則のようにお金ではどうにもできないものというのは存在しています。映画でいえば「恋空」「君の肝臓を食べたい」「世界の中心で愛を叫ぶ」などのパートナーが病死してしまうようなシーンではどう転んでもお金では解決できない悩みもあります。
また、いくらお金を積んでも味わうことのできない達成感や体験というのは個人の経験として財産になるはずです。
さて、ひとつ「お金かお金じゃないか論争」に終止符を打つとしたら、人間の置かれた状況によってお金が重要な時期とお金があまり重要ではない時期があることは記載しておかなければなりません。
独身で実家で暮らしており、お金に困らない。むしろ働かなくてもよいという個人がいたとするならば、「世の中はお金じゃない。幸せをどう感じる心を育むかだ」というような思考になってもおかしくありません。
また、子どもが3人いてもう上の子は高校生、大学に行くことを考えると莫大なお金が必要で、残りの二人も大学に行きたいといっている。お金さえあれば望みが叶うのに。という場合においては「世の中はお金であり、大抵のことはお金で解決できる。世の中はお金だ」という思考になってもおかしくも何ともありません。
「世の中はお金かお金じゃないか論争」は個人の置かれている状況によって全く答えが変わってくるのです。その置かれた状況の反射として個人の答えが導き出されます。
お金が必要とされている状況の人はお金がすべてだと。
お金がそれほど重要視されていない人の場合は、お金がすべてではないと、
そんな風に個人の置かれている状況の反射なのです。
一概にどちらが正しいという偏見をもって接する問題ではないと私は考えます。また、政府の政策のように「すべての国民」に対して有益な政策ということを口に出すこともありますが、その国民は年収1000万稼ぐ国民と年収250万稼ぐ国民ではまったく違うサポートが必要となる様に「国民」という言葉でひとくくりにできない妙というものを理解して発しなければならないと思います。
そのように「お金がすべてかお金がすべてではない論争」ではその個人の置かれた状況からのリフレクション反射としてその答えが導き出されているだけだということを頭に入れておかなければなりません。
なんとなく、思い付きだけどどうでしょう?
ではでは。
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