分析をしなければ大抵のことは楽だった

誰かに宛てた文章は丁寧語
誰にも宛てない文はである
ひとりごとは言った方がいい時もある

目に映るあれこれを、心に浮かぶあれこれを、言葉にして解釈して器用に話す人を、
尊敬していた
すごいと思った
嬉しかったり悔しかったりした
そういう人から潰れていった


今の人達が暇を感じるとスマホを触るように、
居場所がないと太宰か重松清を机の下で広げて
そうあるのが自然だという顔を作った

国語の教科書には「こう読め」なんて書かれていなくて、先生達は「こう読み取れる」とは言ったけど、当たった先生の運が良かったのか、「あなたはこう考えています」と言ってくる人はいなかった

あれが無関心の優しさだったのかと、好きに本を読む気力がなくなった今になって思う


あまりにも目に余る中、用で急なことすら押し込めて、むりやりぽっこり出来た時間の穴に積読してた本を埋めた

何かを感じた気もするし、何も感じなかった気もする

元を返せば、「読み終わったら感想を書こ」と思って読んだんだけど、「何か感じたかもしれないし何も感じなかったかもしれない」というままでいることも、私に与えられた権利の一つだな

本はまたいつでも読めるという安心感から来るのかもしれない


劇は一回払ったお金で一回しか見れないので(色んな【※ただし】っていう例外条件付けは割愛する)、受け取れるものは集中して受け取って、忘れないうちになるべく言葉にして、メモして噛み砕いて分析して解釈して、自分がどう感じたのかまでなるべく言語化して、必死に金額の元を取ろうとする(私は)

初めてTwitterに触れた頃、私のツイートに誰も反応しなかった
フォローが増えていくたび、じわじわとフォロー返しが来た
きっと見ている人もいるのだろうけど、反応してくる人はほとんどいなかった
それが心地よかった

純粋な気持ちでプレゼントを用意するのに、分かっていながらプレゼントを用意しない時は、いつも不純な気持ちだ
優先順位が高くないということを、何とか言い方を変えて言い訳にする

ごめんなさいは身を削って差し出す
固形のチーズを欠片にして、クラッカーに乗せてこうべを垂れる
負債、負債、負債、
在庫がなくなったら自腹で補給して、
負債、負債
負債が払えなくなったら 離れるしかない
休みって 言いたいけど
休んでごめんなさいって言いたくなくて
本当はチーズケーキはクッキー生地が美味しいんだけど
クッキーくらい我慢するから


何でもいいの
どうでもいいの
何を考えてもいいの

分かりやすく名前をつけることが
心地いいと慣れていくうち
ただ純粋に綺麗だと思った抽象画に意味を探すことが芸術だと言う自称芸術家がおでこのあたりに生まれるの

分析を身につけて武器にしようとした時が最弱よ


誰に向けても書いてませんし誰のことも書いてません、なぜなら他人に興味がないので…………………….

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