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楽園から地獄へ

「楽園のカンヴァス」に続いて「暗幕のゲルニカ」を読みました。美術の素人が原田マハにハマっています。

章の日付はちゃんと頭に入れて

 「楽園のカンヴァス」と同様、過去と現在が交互に登場しながら物語が進行し、最後にはつながっていきます。そして過去と現在、その両方に生きて登場する人物が一人だけいるのも「楽園…」と同じです。(正確には「楽園…」の方は三つの時代で構成されています)

 主人公は今回も日本人女性で、ニューヨーク近代美術館(MoMA)のキュレター八神瑤子です。そのボスであるチーフキュレターはなんとティム・ブラウンで、「楽園…」を先に読んだ人は「ふふふ」となるところです。八神瑤子の研究対象はピカソ。幼少の頃、瑤子はMoMAでいくつかのピカソ作品と出会い、中でも「ゲルニカ」を初めて目にした時はその前で動けなくなってしまいます。それがピカソ研究者八神瑤子の始まりでした。

 序章は「過去」も「現在」も穏やかな朝の風景から始まります。「過去」とは1937年4月29日、第二次世界大戦が始まる直前といった感じですか。しかしまだ一応平和なパリ、ピカソのベッドで恋人のドラ・マールが目覚め、コーヒーを淹れに台所へ立つという普通の朝です。

 一方「現在」の方はニューヨークです。夫のイーサンが朝の支度を始めた物音で瑤子は目覚めます。夫の好物であるトルティージャのサンドイッチを二人で食べ、瑤子は幸せをしみじみと実感します。夫から婚約指輪の代わりにもらったピカソ直筆の「鳩のドローイング」を見上げながら。こういう幸せ噛みしめるシーンには嫌な予感がします。何が起こるのかと少しドキドキしながら読み進めると案の定、その朝先に出かけた夫イーサンはそのまま帰らぬ人となります。油断していました。そこはニューヨーク、マンハッタンです。日付は2001年9月11日でした。

 章の始め、私はその日付を視界には入っていながらもちゃんと確認せず文章を読み始めていたので「エッ!」となりました。と同時に物語の主人公をこの日付に放り込んだマハさんの荒業にひっくり返りました。しかし日付を確認していなかったからこそ新鮮な驚きを感じられたとも言えます。

 そしてパリで穏やかな朝を迎えていたピカソがその日新聞で目にしたのが、祖国スペインの内戦でゲルニカという町が無差別爆撃にあったというニュースでした。つまり一般市民が標的となったこの二つの攻撃で物語は幕を開けるのです。

 二つのモチーフ

 私が思うに、本作には二つの大きなモチーフがあるようです。一つは「国連での暗幕事件」、もう一つは現在ゲルニカを所蔵する「レイナ・ソフィア美術センター」です。ちょっと詳しく説明します。

 私は続く章で描かれる事件を全く知りませんでした。ニューヨークの同時多発テロへの報復を謳ったアメリカ政府は、テロの温床としてイラクを名指しし、国連安保理でイラクへの武力行使に承認を(無理矢理)得ます。その理事会の報告の演説台に上がったのは当時のパウエル国務長官ですが、つい先日亡くなりました。事件とは、そのパウエル国務長官が立った演説台の後ろに普段は見えるはずの「ゲルニカのタペストリー」に暗幕がかかっていたというものです。本作では「パワー国務長官」となっていますが、起こったことは全く事実そのままのようです。これはおそらく美術関係者にとっては大変なニュースだったに違いありません。世界平和を実現するために設立されたに違いない国連に、暴力を批判する意味を込めて描かれた「ゲルニカ」はとても相性がいい。しかしその前で武力行使の発表とはいかにも似つかわしくないと「誰か」が考えて見えないように幕をかけた。それは誰なのか?明らかになっていないようですが、これは大げさに言えば「芸術が暴力に蹂躙された一件」です。これがまず一つ目のモチーフでしょう。だって本のタイトルですからね。

 そしてもう一つ。ピカソの「ゲルニカ」という作品がどのように生まれ、どのように世界を旅したかということもこの本を読めばわかります。そして最終的に今我々が住む現在、「ゲルニカ」はスペインに落ち着いています。首都マドリッドのレイナ・ソフィア美術センターという美術館の所蔵だそうです。もし仮に、例えば世界のどこかで大規模な「ピカソ展」をやるとして、どうしても「ゲルニカ」を展示したいと思ったら、このレイナソフィア美術センターに貸し出しの依頼をせねばなりません。目当ての作品を所蔵先からいかに引っぱってこれるか、そこがキュレターの腕の見せ所であるということを「楽園…」で学びました。しかしです、どうやらレイナ・ソフィア美術センターは絶対に「ゲルニカ」を貸し出さないみたいなんですね実際。どうやっても「ゲルニカ」はレイナからは動かないという事実、これが二つ目のモチーフだろうと思います。

 つまり本作は「国連のゲルニカに暗幕をかけよと指示した輩(おそらくはホワイトハウス)に芸術の尊厳をはっきりと示す」ために「どうすればマドリッドのレイナからニューヨークにゲルニカを持ってこれるか」という、おそらくマハさんが「やってみたいけどできない挑戦」を、作品の中でMoMAの日本人キュレター八神瑤子に課した物語です。

ルソーとピカソ、楽園とゲルニカ

 「楽園のカンヴァス」では脇役ながら重要な場面で度々登場したピカソが今回は「過去部分」の主役です。アンリ・ルソーを評価し応援していた頃のピカソはまだ二十代で、モンマルトルの貧乏長屋に暮らしながら「アヴィニヨンの娘たち」を発表して世間を驚かせていました。しかし今回のピカソは既に円熟期に入っており、パリ万博のスペイン館への出展作品を政府から依頼される立場です。とっくに結婚もし、それでいて二人目の愛人と暮らしています。ルソーと違って、経済的にも成功し、性愛も手にし、長生きまでして実に多くの作品を残したピカソは、やはりアートの神様に選ばれた特別な画家なんだと納得してしまいました。

 ただ、貧乏臭さの中にも平和でお伽噺のような雰囲気に包まれていた「楽園…」と違い、本作のピカソは既に貧乏時代を卒業し洗練された都市生活を送る一方、時代はファシズムが台頭し、きな臭さが漂う場面が多く対照的でした。即ちそれは同時に、ルソーが思い描く「楽園」を表した「夢」という作品と、ピカソが祖国で起こった現実の阿鼻叫喚、つまり「地獄」を描いた「ゲルニカ」という作品の対比でもありました。

 ところでゲルニカといえば、中学校の美術の時間に模写をしたことを思い出しました。その時は「なんか面白い絵だし、線が単純で描きやすそう。色も白黒で済むし」という理由で選んだと記憶しています。その模写が残っていないか実家の屋根裏を探しましたが見つかりませんでした。今すごくそれを見てみたい気がするのですが…

問題の結末へ

 さて、史実に沿って実名の人物と架空の人物が絡み合って物語が進むマハ作品ですが、今回重要な役割を与えられたのがスペイン人で名家の息子パルド・イグナシオです。過去部分においてはまだ二十歳の青年ながらピカソを、八十代となった現在部分では八神瑤子を最終的には助けます。ピンチになるといわゆる「金持ちカード」をバンバン切って難局を切り抜けるので、こりゃ架空だろうなと慣れた人ならわかってしまいます。そしてもう一人、瑤子に無理難題を与えつつも助ける女性資産家が登場します。「金持ちカード」とは、例えば時間がないのにどうしてもニューヨークからマドリッドに行かなければいけないという場面で「プライベートジェット」が登場したりすることです。庶民が絶対に持ち得ないカードで問題が解決される爽快感って不思議ですよね。

 そんな「金持ちカード」に助けられながら八神瑤子の挑戦は万事上手くいくか、と思いきやそうは問屋が卸しません。最後までドキドキハラハラの冒険活劇の様相です。そして結末。実は私は納得できませんでした。

 なんかそれまでの期待感から梯子を外されたような感覚になりました。もちろん「いやースッキリした!」という感想をお持ちの方もいると思いますが、私がぼんやりしてるのか、ピンときませんでした。作中、八神瑤子は幾度となく平和を願ったピカソの思い、そして暴力の連鎖が起きている現代にニューヨークでゲルニカを展示する意義を熱心に語ってきました。女性資産家ルースの気持ちも当然同じですし、ゲルニカを動かすことを許可しなかったパルドも内心は同じ気持ちです。なのにこの結末?

 皆の反戦への想いはこれで昇華されるの?ホワイトハウスに対する皮肉というか当てつけだけで終わるんじゃないの?せっかくの本物のゲルニカが一般人の目に触れなくていいの?それで反暴力を世界に訴えたことになるの?などと要らぬ心配をてしまい素直に感動できませんでした。それまでのいわば「大風呂敷」をもうちょっと上手に回収する方法がなかったものかと残念な気持ちで読み終わりました。もしかしたらこれはピント外れの感想かも知れませんが、正直に書いておきます。

 しかし全体的にはピカソという画家とゲルニカという作品が辿った歴史を、臨場感と緊迫感をもって知る旅は飽きる事がなく、終わってみれば、またさらに絵画の世界に分け入ってみたくなるマハマジックでした。

 ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

  

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