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『新聞を読む会~Extend the Time~』

2020年11月12日、2020年度の『新聞を読む会』が終わりました。
『新聞を読む会』というのは、毎週木曜日(Thursday)のAM6:30~AM7:30の約1時間程度、新聞に掲載されている記事について語り合う場であり、記事のジャンルは問わず、気になったこと感じたことを話し合う場です。
時に、地元の『氷見市』についての『現状や未来』を話し合うこともあれば『暮らし』と『経済』が『流動』している『商店街』ついても話し合うこともありました。

また、吉田(英文)さんのお宅は、自宅兼パン屋となっています。
パン屋さんの名前は『考えるパン KOPPE』という名前で営業をしております。
(※補足説明として『考えるパン KOPPE』は奥様が運営しているパン屋さんで、吉田(英文)さんは、別の方で勤めております。営業日は毎週水曜日と土曜日です。

参考までにURLを載せておきます。
(https://www.facebook.com/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E3%83%91%E3%83%B3-koppe-1868289659871053/)

『考えるパン KOPPE』さんの雰囲気が分かる写真をいくつか載せました。


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さて、今回はplease tell me!(教えてください!)ではなく『新聞を読む会』の延長線上のようにしていきたいと思っています(笑)
そして、相も変わらず、吉田(英文)さんのことを名前(英文さん)で呼んでいます。このことについては、ご本人の了承を得ております。

それでは、いつもの木曜の朝に行われている『新聞を読む会』の雰囲気を感じて頂けたらと思います。

それでは、どうぞ!


『新聞を読む会~Extend the Time~』

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(写真は、対談相手の竹添(吉田)英文さん)

中島:今日は、本当にお忙しい中、お時間を作って頂きありがとうございます
吉田:いえいえ。自分も楽しみにしていましたので、お気になさらずに。
中島:さて、今回は『新聞を読む会』の延長線上と位置付けて多少、細かいことを聴くと思いますが、よろしくお願い致します。

吉田:分かりました。よろしくお願いします。



『地元について』

中島:早速ですが、英文さんの『地元』について教えて頂きたいと思います。その後で、少年期から社会人まで、どんなふうに過ごされてきたのか、得たものは何かを教えて頂きたいのと、また何を学んだのかを教えて頂きたいと思います。その学びは学問でもありますし、自分の知識や生きていくための術といったものを教えて頂けたらと思います。

吉田:分かりました。時間が許す限りお話出来たらと思います
中島:お願いします!

吉田:島根県の出雲市(旧簸川郡湖陵町:ひかわぐんこりょうまち)に住んでいました。
人口は約5000人。ここ(氷見市)と比べ10分の1ですね。小さな町だけど、印象としては、過疎な町ですね。ただ、凄いなと思うことは、僕が住んでいた頃からあまり人口が変わっていないということですね。
中島:それ、凄いことですね!
吉田:その要因としては、ベットタウンという認識が自分よりも若い世代にあるみたいですね。また、出雲市へ行くことの利便性があるというのが強みかなと思います。車を使えば、中心市街地まで15分程度で行けるという魅力が後押ししているのかなと思います。でも、ベットタウンと言っても、家が建ち並んでいるというよりは、ポチポチと建っていますね。
『氷見』で言えば、「泉の杜」をイメージして頂ければと思います。
中島:地元の人にしてみれば、分かりやすいです。


『同じ顔ぶれで過ごす日々』

中島:過疎な町だと仰いましたが、具体的に教えてください。出来れば、今の大人としての立場ではなく、子ども頃を思い出して、どんなふうに感じていたのかを教えてください。
吉田:そうですね…。過疎な町だけども不便だと感じたことはなかったですね。コンビニもなかったですけども、不便な思いをしたことはありませんね。また、小学校と中学校が1つずつしかないので、小学校から中学までは同じ顔ぶれで過ごしていましたね。1学年が、約60人程度でしたね。狭いコミュニティの中にいましたね。だから、自分を知らない人はいないですし、実家が畳屋だということも皆、知っている(笑)そんな狭い範囲で生きていたので、小さい頃は、他人と比較できなかったですね。
中島:なるほど…。
吉田:自分には、5歳ずつ離れている兄弟が2人いるんですけども、兄の時と僕の時の1学年の人数は似たような人数だったと思うんですけども、5歳離れている弟の時は、人数が多少、減っていたような気がします。
中島:ご兄弟がいて、羨ましいです。僕、一人っ子なので(笑)
吉田:えっ、なかじー、一人っ子だったの(笑)
中島:そうなんです(笑)
吉田:次男も一人っ子も、子どもの時の特権としては自由じゃないかなと思います(笑)
中島:うーん。そのことに関しては、何とも言えません(笑)
吉田:(笑)

『取り巻く環境』

中島:ご兄弟のお話が出たので、少しお聞かせください。
吉田:そうですね。5歳下の弟とは、他愛ないもないことでケンカをしていましたね。
中島:(笑)
吉田:両親から言われたことは、手がかからない子どもだったと言われましたね。
中島:手がかからない子どもだったということは、自立した子どもだったいう印象ですけど、その点に関しては、どうですか?
吉田:そうですね。自分と兄が小学生の時は、スーファミ(スーパーファミコン)が流行っていた時代だったので、ソフトを1つ買うにして1万円ほどで高かった時代だったと思います。まだ、中古店が近くになかったので、兄は半年に1回は新しいソフトを買ってもらっていましたね。そんな中、兄と弟は、それを買うのは良かったんですけども、自分だけがダメになったんですよね(笑)
中島:(笑)その理由は、何だったんですか?
吉田:いや、良くわかんないんですよね。多分、思いつきだと思うんですけど(笑)
中島:そうなんですか(笑)。
吉田:それで、両親から言われたのは「TVゲームじゃないものを欲しがれ!」と言われましたね。子どもながら、自分が欲しいものがあれば、両親に「何が欲しいのか」を伝えるプレゼンをしていましたね。
中島:子どもの頃に、プレゼンをして欲しいものを伝えるって、中々出来ないことですよね。
吉田:そうですね。始めてのプレゼンをした時に欲しいと言ったのは「Gショック」でしたね。
中島:他に、どんな遊びをしていましたか?また、身近にあったことや体験したことを教えてください。
吉田:スポーツよりは、魚釣りや探索していることが多かったですね。それに、カブスカウトに入っていて、地元を回っていましたね。カブスカウトって「自分のことは自分でする」「自然や社会と触れ合う」「みんなでルールを作って仲良く遊ぶ」ことを主にした活動なんです。
中島:なるほど。今、話を聞いて思ったのは『考えて行動をする』ことや『考えたことを言語化して相手に伝える』というのを子どもの頃からしていたというふうに感じました。
吉田:そうですね。それが、大人になって役立っていますね

『歴史を通じて、学ぶことに関心を持った』

中島:外での活動の他に、子どもの頃に興味・関心があったことについては何かありますか?
吉田:そうですね。歴史について興味・関心がありましたね。きっかけは、いくつかあります。
実は、小学校の中学年のときに、仮病などを理由にして不登校の時期がありました。その時に、たまたま家に置いてあった日本の歴史マンガを読んでハマったのが、最初のきっかけですね。
少し話が脱線してしまいますが、最初に教員として赴任した学校は不登校の子どもが通う学校だったんです。そこでは色々とありましたが、僕も不登校というものの経験があったから、その子たちに寄り添うことが出来たのかなと思います。
もう1つは、11歳の頃、小学校5年生くらいだったと思うんですけども『赤紙が来た村』を見て、戦争の恐ろしさを知ったというよりは『戦争が起こす恐怖・悲劇』を体感した気がしました。
また、歴史という観点から言えば、自宅前に通っていたバスが無くなったことで、過疎化しているのを肌で感じましたね。あと、子どもの頃は遊園地が流行っていた頃でした。だけど、島根県には、遊園地がなかったので、廃れていると感じがしましたね。でも、温泉(源泉)が多くあるのも、今となっては魅力ですよね(笑)


【思春期】

中島:小学校のときには、歴史や探索活動等を盛んに行っていたと感じました。中学生の頃は、どのように過ごしていたのか、教えてください。
吉田:自分たちの年代が悪名高かったんですよね(笑)例えば、タバコを吸っている人が、何人かいたのと先生に対して、冷(さ)めたような反抗態度をとっていましたね。自分は、タバコは吸わなかったですね(笑)
中島:(笑)ちなみに、そうなるきっかけって、何かありましたか?
吉田:そうですね。僕が所属していた部活の顧問で、生徒指導されていた先生が転任されたことが、きっかけだったのかな…。うーん、正直、未だに分かんないんですよね(笑)ただ、その先生が居なくなった途端に、荒れだしたのと、大人に対する不信感が高まっていた気がしますね。

中島:その点について深掘りしていきたいと思います。まず、部活動は何をしていましたか?
吉田:部活は吹奏楽をしていました。楽器は、ユーフォニアム。その、生徒指導の先生は、島根県内だけではなく、全国でも珍しい有名な先生でした。今でも、尊敬しています。その先生のおかげで母校は、吹奏楽のトップレベルの学校でした。また、その先生の凄いところは、吹奏楽の経験があまりなかったにも関らず50年連続で全国大会に出続けているような学校に転勤し、悪戦苦闘しながらも、その全国大会出場の伝統を継続させていたことです。全国大会に出るのは、本当に狭き門なんですけども、それを幾度なく突破している。まさに、伝説ですよね(笑)
中島:凄い先生ですね!まさに、生きた伝説ですね(笑)そんな先生が顧問をしていた中で、英文さんは、どんなふうに過ごされていたんですか?
吉田:そうですね。楽器のパート事に、リーダー。トップと呼ばれている人たちがいるんですけども、ユーフォニアムのトップの先輩が途中から不登校になってしまい、トップ不在となったんですよね。それで、その方の代わりに僕がトップになったんです(笑)入ってきたばかりの自分に最初は不安だったんですけども、周りのサポートのおかげで何とか出来ました。
中島:伝説の先生が転任されながらも、3年間続けられて得たものは、何がありましたか?
吉田:そうですね。全国までは手が届かなかったことの悔しさもありますが、一人じゃ何もできないことですかね。音を出すのは1人でも出来ますが、1つの曲を演奏するのは、1つの音じゃダメなんですよね。いくつかもの楽器を使い、音を奏でることで厚みや深みが増すんですよね。物事でも、同じですよね。

中島:部活以外は、どのように過ごしていたのかを教えてください。
吉田:そうですね。地元に個人経営の塾が出来て、そこに通うことになったんですが、厳しい先生でしたね(笑)で、その塾が終わった後は、幼なじみたちと色々と寄り道をしながら帰っていましたね(笑)
中島:色々ですか(笑)
吉田:はい(笑)色々と寄り道をして帰っていましたね(笑)今でも、その幼なじみと交流があります。そのうちの1人は、統率力があって、生徒会長も選任されていました。今は、大工として活躍しています。その子どもが成人を迎えたら、全国を周る出張大工として活動すると言っていましたね。いつか、ここ(Koppe)に来て何かしらやってもらうと思います(笑)
中島:お話を伺って感じたのは部活に塾と、寄り道(笑)と忙しい日常を過ごされていたのかと感じました(笑)また、幼なじみの方との関係が今でもいい関係であることを感じられました。
多少なりとも荒れていても、大人に対して反抗的な態度を取っていても、楽しい日々を過ごしていたのかと思いました。
吉田:そうですね(笑)そのときにしか体験出来なかったことや、そのときがあるからこそ、今日の繋がりもあれば、経験を活かすことが出来ると思いますね。
中島:勉強になります。


【高校編】


中島:高校の進学のきっかけと、その当時の生活について教えてください。
吉田:地元に高校がなかったので、出雲市の高校に通いましたね。基本的には、電車通学でした。電車通学で、不便だったのは、終電が21:30頃だったことですね。あとは、1時間くらいにかけて、自転車で学校に通っていたこともありました。
中島:その高校に決めた理由はありますか?
吉田:成績の関係で決めた程度で、思い入れ等はあまりなかったと思います。
中嶋:高校での部活動も吹奏楽でしたか。
吉田:そうですね。中学の時の吹奏楽の先輩に誘われたことですね。そして、入部してからは人数等の関係もあってユーフォニアムから楽器がホルンに変わったんです(笑)最初は、中々音が出なかったのが悔しかったですね(笑)悔しかったので、とことん練習しましたね。それと、マーチングの練習も厳しかったですね。歩幅を合わせるのが難しく、苦労した点もありましたけども全国の大会も出場できましたし、成績としてもそれなりの結果を出すことが出来たので良かったです。
中島:学校生活は、どう過ごされていましたか?
吉田:あの頃は、冷めていた性格でしたね。楽しかったという感じは、あまりなかったですね。高1、高2の頃は、勉強もせずに、時間に流されるような感じで過ごしていましたね。だけど、小学校の時から好きだった歴史については、サボらずに学んでいましたね、反対に、英語は苦手で疎かにしていましたね。そのツケが回ってきたのか、高校3年のときに、進路のことを考えたら、全く勉強をしていなかったので、どうしたら進学出来るのかを考えましたね。その時は、親も心配していましたね。
中島:その時に、どんな行動を取って受験に挑んだんですか?
吉田:大学受験向けの塾に通いながら、高1の勉強からやり直しましたね。自分が、どこまで理解しているか、していないのかも洗い出していましたね。また、その高校の吹奏楽の変わった風習があって、引退が高2なんですよね。3年生に上がっても続けるのは、ごく稀でした(笑)それもあって、高1からの勉強をやり直す時間があったのかもしれませんね。
中島:受験勉強にあたって、他には印象に残っていることはありますか?
吉田:学び直すことで、点数は着実に上がってきたのを実感しました。また、点数が上がっていく感覚はゲーム感覚でしたね。RPGのレベルアップみたいな感じですかね。また、基礎固めよりも、実践練習。入試問題をとことん解いていたのと、科目によって得意不得意がある生徒のクラスにいたことが良かったのかもしれませんね。苦手な科目があれば、得意な人に聞くことをしていました。お互いに手助けをしながら、受験に向けて動いていましたね。それに、自分たちが分からないものは、分かる人に聞いて、教えてもらう。ということをしていましたね。
教えあいの時なのですけど、同級生からの評価が好評で、そのおかげで教員を目指すきっかけにもなりましたね。

中島:大学を決める点で、基準などありましたか?
吉田:歴史を学ぶことは外せなかったですね。学び続けたいと思っていたことなので。大学に関しては、初めは地元の大学を目指していましたが、その頃は、力もついてきていたので、近隣の大学も受けることも視野にいれていたのですが、東京の大学に進学を決めました。高3の頃に大学見学し、都内でも田舎っぽいとこだったので、そこで良いかもしれないと思い、進学を決めました。実際に、自分の目で見て肌で感じてみないと分からないことが多いですよね。
それは今でも変わらないことだと思いますし、常に意識しているような気がします。

【大学生活】


中島:地元を離れてからの大学生活は、どんなふうに過ごされましたか?
吉田:そうですね。勉強しましたね。今、思えば大学生の時が、一番勉強したのと夢中になって学んだことですね。勉強をするよりも、とにかく学ぶことが楽しかったです。
学校の図書館の利用時間が22:00までだったんですけども、その閉館する時間まで図書館で勉強していたこともありましたね。また、1年から卒論を手掛けていました。
中島:1年の時からって凄いですね…(笑)
吉田:まず大きなテーマを設定してから、そのテーマを少しずつミクロにしていきましたね。ミクロというよりは圧縮というイメージですかね。時間をかけた分、内容の濃いものが出来ましたね。
中島:その時、書かれたテーマは何だったんですか?
吉田:卒論は平安京のホームレスについてです。大まかな説明になるんですけども当時は、ホームレスは差別されていませんでしたが、時代が進んでいたことで、差別されるようになったんです。
中島:興味深い話ですね。また、改めて聞かせてください!
吉田:分かりました。

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(英文さんと、その愛車)



あとがき。

竹添(吉田)英文様には、お忙しい中、時間を作って、対談を受けて頂き、ありがとうございました。この場をお借りして、再度お礼申し上げます。

最初に英史さんとお会いしたのは、ブルーミン(湊川近くのビール屋さん)さんでした。英文さんがビールを買いに来た時に、僕がカウンターで飲んでいて、僕から話しかけたのが、きっかけで交流が始まったと思います。

また、その時に、英史さんのFacebookのページに、毎週木曜日(当時)AM6:30~AM7:30まで『新聞を読む会』を開催されていることを知り、去年の11月末まで参加していました。

その間の出来事としては、大きな出来事と言えば県知事選や、氷見市においての新文化施設の話があったと思います。
身近な話題でいえば、商店街、移住、教育、本等の話をしていたような気がします。
本当に、いつ新聞記事を読んで話し合っているのか?(笑)と思うことも、しばしばありましたが、1時間弱で、政治、経済、地域、教育を話し合っていたと思います。

この対談を文字に起こしていて思ったのは『新聞を読む会』ではなく、『自分たちの中、仕入れた情報を語り合う会』になっていたのかなと僕は思いました。

しばらく『新聞を読む会』には参加出来ませんが、改めて参加出来る日が来たら、新聞を持ってきたいと思います(笑)

英文さん、本当にお忙しい中、時間を取って頂きありがとうございました!

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