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2002年からの武術エッセイ

柳生新陰流の道歌だったと思うが、たしかこんなのがあった。

「斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、一歩進めばあとは極楽」

まさに武術の技の全ては、斬り結ぶ太刀の下の向こうにしかないと思う。
間合い、呼吸、歩法、技、全ては斬り結ぶ太刀の下の向こうにしか存在しない。
というよりは、存在しようがないと思う。
受けてから斬る、あるいは突く、あるいは投げる。
武術においては、ありえない。それでは、あまりに遅すぎるからだ。

武術なら、受けながら斬る、受けながら突く、受けながら投げる。
すべては、斬り結ぶ太刀の下の向こう側での作業である。

もっとイメージとしてお話するならば、「斬る」の「き」の字、あるいは「突く」の「つ」の字で動く、自分の体を前へ、あるいは斜め前に運ぶ。後へあるいは横へということはありえるが、技をかけることは不可能に近い。

多くの人達が勘違いしているかもしれないが、「歩法」と言い、「さばき」と言い、「防御」と言い、「受け流す」と言い、「崩す」と言っても、全ては「斬り結ぶ太刀の下の向こう側」にいるという条件でのお話なのだ。

これがわかっていない人たちが、「散打」を「サンダ」に換え、「空手」を「カラテ」に「剣術」を「ケンドー」に換え、「柔術」を「ジュ-ドー」に換えてきてしまったのだと思う。

それは、ある意味悪いことではないが、武術の姿を謎のベールに包んでしまう役割をはたしてしまっているのは、事実だと思う。

2005年3月記す。

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