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「願立剣術物語」を読んでみました。

原文

手は車のごとし。
車の道をよく直に押すは自由自在なり。
横に押すはたちまち砕かれるなり。
習いの道を我が太刀行くところまですらすら止まれば敵の怒りは我と砕け落ち、敵も独り行く我も独り行く道なり。
向こうへ行く心の車ひとつ、左右へ行く車ひとつ、このふたつを合わせて四方輪なり。
しかるゆえ玉をころばすの形これなり。
この輪をまわすこと大事なり。
太刀のあたるきわにて俄かにちゃくとまわす事悪し。
初めなく終わりなきがごし。
循環の端なく心の輪少しまわしたる時は末にては五尺の輪ともなる。
あるいは五間百間千町万里の輪とも成ること。
向こうへ行く車ひとつ、左右へ行く車ひとつといえば車ふたつのように聞こえれどもふたつにてはなし。
いつも我が向こうへ行く車ひとつ押すは左右の車は自然と備わるなり。
このとき玉の形と成るということを知れ。

解釈

手は車輪が回転するように動かす。
その車輪を真っ直ぐに押せば自由自在となる。
しかし、途中で横にねじれたりすれば、砕けてしまうだろう。
習ったとおりの動きを止まるところまでスラスラと行い、相手に受けられたからといって踏ん張ったりねじったりしなければ、敵の抵抗感も自分の抵抗感もなくなり、お互いに力が衝突することはない。
進むときの車輪の回転がひとつ。
左右に回転する車輪がひとつ。
これを合わせて四方輪という。
つまり玉を転がすようにする。
この輪を回すことが大事だ。
相手の攻撃が当たる寸前に回すのではない。
はじめから回っているのだ。
体幹の移動と回転が同時に動いていれば、手元の動きが小さくても末端に行くほどどこまでも広がっていく。
向こうへ進んで行く車輪がひとつ、左右へ行く車輪がひとつというと車輪がふたつあるように聞こえるが、ふたつではない。
いつも向こうへ車輪がころがるならば、同時に左右へも車輪が転がるようにする。
このときの様子は玉が転がるように見える。

コメント

相手に技をさえぎられるたびに別の技に変化していく。
そこで踏ん張って、その技をかけようとしてはいけない。
その技にこだわれば、すぐに習っていない動きが出てくる。
すなわち自分の浅知恵が出てくる。
習ってない動きは、自分の浅知恵の動きだ。
習っている技の動きは先人たちの知恵の結晶だ。
自分の浅知恵は、武術として間違っている。
習って習って習いつくした技は自分の動きではなく、先人たちの動きだ。
その動きをひたすらスラスラと止められるまで行う。
相手の実力が高くて、こちらの出す技のことごとくをかわされ止められたとしても、決して自分の動きをしてはならない。
そうすれば、途中で止められた技の数々が相手の動きを自然と封じ込めることになる。

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