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泣く、思うがままに。

電車に乗っていた。

2~3歳くらいの男の子が父親と一緒に乗ってきた。ベビーカーが止まった瞬間、男の子は待ってましたと言わんばかりに、全身の力を抜いて、ふにゃふにゃになった体で下にずれ落ちてゆき、器用にベビーカーから脱出。

明らかに常連犯、わるい顔をしてた。

脱出した後はというと、またもや全身の力を抜いて、床に寝転ぼうとチャレンジ。だが、あと少しというところで、父親に体を持ち上げられてしまう。

すると、思い通りにならないことにむしゃくしゃしたのだろうか。「ぼくはどうしてもゆかにねたいんだ!!!!!」と訴えるかのように、ありったけの力で泣け叫び、全身を使ってその思いを表現する。その姿はまるでスカイダイビングをする際のポージングそのもので、両手両足の先までしっかり伸ばし、体をどたばたと揺らす。

そんな全身全霊で感情を表現する彼の姿に、私はひどく感心してしまった。

思えば、私も場所を問わず、わんわん泣く子供だった。だが、成長するにつれて「泣くのは悪いこと」「人前で泣くのは恥ずかしいこと」という風に、周囲の環境によってマインドセットされていった。

そして、まさに、このマインドセットが自分自身を苦しめていると感じる。

「泣く」という行為は、感情を認識し、表現する手段として大いに適当であると思う。笑い過ぎて泣く、感動して泣く、悲しくて泣く、やるせなくて泣く、自分がどんな感情を抱いているか分からなくて泣く、私が「泣く」時はこんなにも感情のレパートリーがある。

これほど多様であれば、認識も何もないけれど、泣くことによって「何で泣いているんだろう」と内省の契機が発生する。それが何よりも意味のあることだと思っている。

そう、だから私は、電車で出会った彼のように泣きたいのだ。それも遠慮などせず、思うがままに。

この思いを、きっと世間は「いい大人なのに」と冷めた目で見るんだろう。と、世間を斜めから見てしまうのは悪い癖だけれど、容認してくれなくても別に気にしない。泣くことを我慢して自分を押し殺す人よりも、泣きながらも自分を探求できる人でありたいと思ったりする。

なので、もしも今後私が泣く姿を目にするような事があれば、「ああ、自分探しに行ってるんだなあ」とでも思って頂ければ幸いなのです。




ちなみに涙を拭く時は
ハンカチよりティッシュ派。

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