五千円で何が出来るかって話

気紛れ更新のこんなノートを読む人がいるのかいないのかわからんけど思いついた事を描き散らかして、今すげぇうるさい女子大生に囲まれて死にそうだから延命措置だと思って欲しい。

自分のお小遣いが五千円で云々というのをチラリと見ながら、世の中にいるお金持ちと金遣いの相関図みたいなものを考える。これはよく俺が言ってる想像力の問題だし、世に言う金持ちとか貧乏とかのレッテルの問題だったりもするんだけど、「家の金持ちレベルと子供の富豪レベルってきっかり一致するとは限らないよね。」っていうお話。

あーの、ぶっちゃけていうと都内の住宅街に三階建ての持ち家があって、息子(俺のことだね)を私立大学に行かせて娘も私立の一貫校に入れて(まぁ、妹は協調性と眉毛がないから高卒で辞めたんだけど)って言うウチのご家庭様はかなりのクラスだと思うんだけどさ。まぁ、祖父の話は一旦置いておいたとしてもさ。だからってそのご家庭が息子を裕福に育てるかっていうと案外違うんだよなぁ、っていう。

これは俺の視点が凝り固まってるからなのかわからないけれど、俺は自分が欲しいと言った物を買ってもらった事が一度もない。おもちゃの代わりに図書券を与えられ、テレビは基本的に野球か格闘技が流れていて、小学校を卒業するまで漫画を自分で買った事がなくて、御年玉は積み立てられて学習机になったり、家庭共有のパソコンになったりした。小学校三年生の時に初めてお小遣いを月に三百円もらえることになった。学校で全員が持っていた飛びやすいと評判の縄跳びを買えなくて体育がどんどん嫌いになった。一個百円のゴムボールを無くしたから買えばいいと言っていた友達を信じられなくなった。小学5年の時に空前のポケモンブームだった。みんなカバンにゲームボーイを隠していた。僕は視力が悪くなるからと禁止されて、友達が持っていた設定資料の本みたいなを必死に読んでいた。ポケモンの話ができない奴に人権はなかった。アニメに助けられていた。中学に入ってみんなが携帯を持ち出したけど、そんなものは買えなかった。小遣いが月に千円に上がった。歩きでどこまでもいくくせがついた。友達がラーメンを食ってるのを外で缶コーヒーを飲みながら待つようになった。学食でランチを食ってる友人の横で一杯百円の白飯にソースとマヨネーズをかけて食っていた。ライブに行き始めてますます金はなくなった。三千円のライブに毎週行けるやつと三ヶ月に一度しか行けない奴に格差が生まれた。


描こうと思えば俺の劣等感話はいくらでも書けるんだけど、その辺にしておいて。周囲と親の収入が変わらなくても子供に自由に使わせる親と子の差は如実だし、同じ学校の同じクラスの奴に金のなさで引目をとるプライドの傷つき様ったらない。や、何が言いたいかというと、月に五千円貰うのもいいし、小遣いなぞやらずに欲しいものを与えるのも全然構わないんだけど、そこで生まれる意識格差って親には見えないのに人格形成に絶対に深い影響を与えると思うんだよね。

ちょっと違うんだけど、池袋に出来た障害児も自由に遊べるってコンセプトの児童公園、普通の子も普通に入って変わりなく遊べるよ!っていうコンセプトは親とか教育者からしたら超絶拍手だと思うんだけど、バックボーンを何も理解しないで違う物を目の当たりした子供への影響って勝手にこっちで判断していいもんなの?よくわかんないんだけど。優遇された公園に辿り着けない時間経済余裕がない障害児は無理っすよ感も強く感じて、一方的なエゴを感じたし、違うってこと、かなり強めのベクトルを持つ気がしてるんだよなぁ。

俺の人格形成についてはまたゆっくりと。少なくとも俺は自分の家を貧乏だと思ったことはないけど、俺自身は貧乏だとずっと思ってるよ。

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