自意識の話。面倒臭い奴。

世界が狭いな、って知り合いがいる。多様性ではなく好き嫌い、自分への肯定具合、どれだけ敵対されないか、どれだけ自分を甘やかすか、で判断している様な、そんな感じが透けて見えてる人だ。本人は恐らくこの文章も読みゃしないだろうし、知ったこっちゃないんだけど、そうなる原因ってどこにあんだろーなー、と思うの。

って、思ったけど否定してくる人間全部切り捨ててけばそうなんのか、と答えにたどり着いてしまった。そのまま生きていければ幸せだなぁ、と生暖かい目で見ていく事とする。

本題。

誰しもが、成長して成熟して形成されていくのだと思うんだけど、どうしてその年になるまでそこが削れなかったんだよ、と言う人は確かに存在していて、常識は人それぞれとか言うけど、そこは直しておかないと社会で生きるのに困るのでは?というところ、たまに見かける。もっと言えば、その辺は十代で終わらしておけよ?という言動を普通にしてる人、結構いるでしょ?まぁ、それを持ち続けることを余裕と分類することもできるかも知んないし、それは持たざるものの僻みなのかも知んないけど。

15歳までは、きっと何者かになれると思っていた

25歳までは、人と違うと思っていた

でも、どこかのタイミングで見えてしまうというか、理解してしまうと思う。それは、それが不可能だということではなくて「誰もが誰もと違い、何者かであるが、理想的に満足する何かではない」という事。人と違う何者かに憧れていたのではなく、あの人みたいになりたいと憧れていた事、あの人と自分は違う事、あの人にはなれないということ。

今、ここにたどり着いて、それでも憧れの残滓を引きずっているのは、きっと誰かに憧れられたいという、本質的に抱いていた何かが見えてきて、その割に自分が大したものでないけれど、それと同時に自分の憧れと人が抱く憧れの多様性に一縷の希望を見出せれば、なんてことも思っちゃって、だからこそ、少しずつで良いから、自分のできることをして、誰かに何かが引っかかれば、もしかしたら、憧れのあの人の目に止まることも、あるかもんしんねぇよな、と。


だって、世界は広大よ?バトー

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