依存先が有るのは良いことか?

昔、桜井に叱られたことがある。「お前は、秋葉原文化を絶対にどこかで馬鹿にしてる!萌とか言ってりゃ良いと思ってるだろ!もっとそういうのって純粋なんだからな!」と、今となってはあんまり見なくなった街中に立ってるメイドを見ながら俺の十年来の友達は俺を叱った。「そんなことねぇよ」と言ったと思うけど、よくよく考えたら、馬鹿にしてはないけど理解もできてなかったな、と、今となっては思う。

推しとか、信仰とか、ファンとか、そういうのに心血を注いでいる人をよく見ている。すごく幸せそうで、すごく楽しそうで、すごく羨ましく思う。びっくりするほどの労力を使って、自分が応援している人の為に何かをしているの、すごいな、と思う。で、一番すごいのがそれに対して見返りを求めない(様に見える)のが凄いな、と思う。

語弊があるかもしれないから言うけど、俺にだって好きなアーティストもいるし、応援している活動者だってきちんといる。新譜を必ず買うバンドだってあるし、柄にもなくファンイベントに顔を出した事だってある。ただ、なんだろう、やっぱり居心地が悪いと言うか、座りが悪いと言うか、なんというか。アーティストが作品を生み出すのを、俺は勝手に聞くし、勝手に消費する。それに対して対価を払うのは全然構わない。でも、なんか、板の上に触れてはいけない気がする。何が言いたいのかわかんなくなってきたけど、これだけは言える事、それは「俺がいなくなってもさして向こうには痛手にならないんだよな」というのが、悔しいんだか寂しいんだかで、自分で線をめちゃくちゃ深く引いてしまっている気がする。だからこそ、俺からその人がいなくなっても大丈夫な位置までしかいけないのかもしれない。互いにいなくなっても大丈夫、その程度の距離感を保つ。だからこそ、公然と推しとか言えないのかもしれない。心身を注げない。信仰できない。

もしかしたらそれは恋に近いのかもしれない。自分でコントロールできないくらい、感情を揺り動かされる何かなのかもしれない。それがどこに転がってるかわからないし、俺はまだそれに出会っていないのかもしれない。一生それに出会わないのかもしれないし、俺の恋はそんな熱烈なタイプじゃないっていう、それだけのことかもしれない。

一生、この人が失われたら引きずってしまう様な人に出会えている人、それがしこたま、今の僕には羨ましいのだ。

多分ね。

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